庭瀬藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
庭瀬藩(にわせはん)は備中国賀陽郡庭瀬周辺(岡山県岡山市庭瀬)を領した藩。藩庁は庭瀬陣屋(旧・庭瀬城二の丸を使用)に置かれた。
目次 |
[編集] 藩史
慶長5年(1600年)関ヶ原の戦いで西軍主力となった宇喜多秀家の家臣であった戸川達安は内紛により東軍方についた。その功により達安は29,200石を領し立藩。庭瀬城を居所とした。2~4代藩主はそれぞれの兄弟に領地を分与したため、4代安風の代には2万石となった。延宝7年(1679年)安風に嗣子なく廃絶。一時、廃藩となった。
4年後の天和3年(1683年)下総国関宿藩より久世重之が5万石で入封し再び庭瀬に陣屋を構え立藩した。貞享3年(1686年)重之は丹波国亀山藩に移封。
7年の後、元禄6年(1693年)大和国興留藩より松平信通が3万石で入封。元禄10年(1697年)信通は出羽国上山藩に移封となった。
元禄12年(1699年)上総国高滝藩より板倉重高が2万石で入封し、廃藩置県まで板倉氏が11代172年間在封した。
江戸後期の文政元年(1818年)7代勝資は藩校誠意館を開ている。
明治4年(1871年)廃藩置県により庭瀬県となった。後、深津県・小田県を経て岡山県に編入された。
板倉家は明治17年(1884年)の華族令により子爵となった。
なお、第二次大戦前に内閣総理大臣となり五・一五事件で凶弾に倒れた犬養毅はこの藩の郷士の出身である。
[編集] 歴代藩主
[編集] 戸川(とがわ)家
外様 2万9千石→22,500石→2万1千石→2万石 (1600年 - 1679年)
- 達安(みちやす)〔従五位下・肥前守〕
- 正安(まさやす)〔従五位下・土佐守〕 分知により22,500石
- 安宣(やすのぶ)〔従五位下・土佐守〕 分知により2万1千石
- 安風(やすかぜ)〔夭折のため官位官職なし〕 分知により2万石
[編集] 久世(くぜ)家
譜代 5万石 (1683年 - 1686年)
- 重之(しげゆき)〔従四位下・大和守、侍従〕
[編集] 松平(まつだいら)〔藤井(ふじい)〕家
譜代 3万石 (1693年 - 1697年)
- 信通(のぶみち)〔従五位下・越中守〕
[編集] 板倉(いたくら)家
譜代 2万石 (1699年 - 1871年)
- 重高(しげたか)〔従五位下・越中守〕
- 昌信(まさのぶ)〔従五位下・讃岐守〕
- 勝興(かつおき)〔従五位下・摂津守〕
- 勝志(かつゆき)〔従五位下・主水正〕
- 勝喜(かつやす)〔従五位下・主水佑〕
- 勝氐(かつもと)〔従五位下・主水佑〕
- 勝資(かつすけ)〔従五位下・越中守〕
- 勝貞(かつさだ)〔従五位下・摂津守〕
- 勝成(かつしげ)〔従五位下・越中守〕
- 勝全(かつまさ)〔従五位下・越中守〕
- 勝弘(かつひろ)〔従五位下・摂津守〕