丹羽氏次
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丹羽 氏次(にわ うじつぐ、天文19年(1550年) - 慶長6年3月19日(1601年4月21日))は、戦国時代の武将。三河伊保藩の初代藩主。丹羽氏勝の子。幼名は六郎。勘助。
1550年、尾張国(愛知県)岩崎に生まれる。父の後を継いで織田信長に仕えた。信長死後はその次男である織田信雄に仕えて各地で武功を挙げたが、信雄と対立してその勘気を被ったため、1583年に徳川家康の家臣となった。1584年の小牧・長久手の戦いでは岩崎城を弟の丹羽氏重に守らせ、自身は家康に従って小牧に赴いて武功を挙げた。しかしこのとき、池田恒興と森長可の猛攻を受けて氏重は討ち死にしている。
その後、家康の取り成しで再び信雄に仕え、伊勢国内に7000石を与えられた。しかし小田原征伐後に信雄が改易されると、再び家康の家臣となる。このとき、家康の命令で息子の丹羽氏信を豊臣秀次の家臣としている。1600年の関ヶ原の戦いでは東軍に属して戦功を挙げたことから、三河国伊保に1万石を与えられ、その藩主となった。しかし翌年3月19日に死去し、後を子の氏信が継いだ。享年52。
法号:大翁道用。