窪川鶴次郎
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窪川鶴次郎(くぼかわ つるじろう、1903年2月25日-1974年6月15日)は、日本の文芸評論家である。静岡県菊川市出身。
掛川中学から金沢の第四高等学校 (旧制)に進学し、中野重治と知り合う。そのために、理系ではあったが文学に熱中するようになる。文学への欲求のために高校を中退して上京し、貯金局に勤務する。大学進学のために上京した中野と再び文学活動をはじめ、堀辰雄たちも含めて同人誌『驢馬』のメンバーとなる。そのころ、田島いね子と知り合い、結婚する。いね子は彼や中野のすすめで小説「キャラメル工場から」を発表し、小説家窪川稲子としてプロレタリア文学の新進作家として登場するが、鶴次郎はなかなか陽の目をみなかった。ただ、1930年11月号の『ナップ』に掲載された詩「里子にやられたおけい」は、作曲されて広く歌われるようになった。
評論家として窪川が認められたのは、1931年頃からのことである。その後、1934年に作家同盟が解散してからは総合雑誌や文芸雑誌にも活躍の場を広げた。このころの主要な著作として1939年に中央公論社から出版された『現代文学論』などがある。これらの評論集で、鶴次郎は、戦争へと傾斜する文学に警鐘を鳴らし、現実社会を描く文学のありかたを追究した。
しかし、稲子との夫婦仲は、鶴次郎の不倫をきっかけに悪化した。1938年には、19歳年上の田村俊子との情事が発覚、1945年、二人は離婚し、稲子は筆名を佐多稲子と改める。そして、ふたりの関係に取材した小説をいくつか書いた。
戦後、鶴次郎は新日本文学会の結成に参加し、民主主義文学の立場から批評活動を続けるが、1950年代にはいると、日本大学で教鞭をとるほうに力がそそがれるようになり、評論活動はほとんどされなくなった。その代わりに、石川啄木研究を中心とする短歌論にも多く手をかけ、晩年は啄木研究者としてのイメージが強い。