上条政繁
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上条 政繁(じょうじょう まさしげ、天文14年(1545年) - 寛永20年8月13日(1643年9月25日))は、戦国時代の武将。上杉謙信の養子の一人である。実父は能登畠山氏の当主・畠山義続(政繁は次男)。正室は上杉景勝の妹。(姉説あり)
元の名を畠山義春という。上杉謙信の人質として連行されたが、やがて謙信から気に入られてその養子として迎えられた上、上杉氏の一門である上条氏の家督を継ぐことを許され、景勝の妹と結婚して謙信の養子として迎えられるなど、破格の厚遇を受けていた。謙信存命中から織田信長や北条氏政らとの戦いで各地を転戦して武功を挙げた。
謙信の死後の上杉氏における後継者争い御館の乱において、政繁は景勝側について武功を挙げた。その後も、織田信長の侵攻が激しくなったため、政繁は織田軍の侵攻を食い止めるために松倉城にたびたび向かい、武功を挙げている。1582年の本能寺の変で信長が死去したため、織田軍の侵攻が無くなると、政繁は景勝の命令を受けて松倉城から海津城の城将となる。1583年には景勝に対して景勝の側近である直江兼続を自分の麾下の奉行として派遣することを強要したが景勝によってはっきりと断られている。 1584年に秀吉の元に政繁の息子(景勝の甥。この時まだ景勝に子がいなかったため)を質として送ることが決まるとその代償として軍役と領内の諸役を全て免除された。そのため海津城には須田満親が入ることになる。1586年景勝が上洛する時に政繁も一緒に上洛したがその後上杉家を出奔した。
その後は徳川家康の家臣となり、姓を上条から畠山に戻した。徳川家の家臣として江戸で暮らし、1643年に99歳という長寿をもって死去した(一説として1625年没)。後に上杉氏とは和解して政繁の次男・長員が旗本上杉氏を設立している。
政繁が上杉氏から出奔した理由については、景勝と信濃国統治をめぐっての対立があったとされるほかに、景勝の側近として頭角を現していた直江兼続による讒言説、さらに当時上杉氏に叛旗を翻していた新発田重家と親しい仲にあった説、かつて謙信の養子であったことから、その存在を景勝と兼続に危険視されて追放に追い込まれたと言う諸説がある。