新発田重家
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新発田 重家(しばた しげいえ、1547年(天文16年)? - 1587年11月25日(天正15年10月25日))は、戦国時代、安土桃山時代の武将。父は新発田綱貞、兄は新発田長敦。因幡守。
揚北衆佐々木党の一人(加地氏庶流)。上杉謙信に仕える。謙信の死後に起こった御館の乱では上杉景勝を支持し、同族の加地秀綱を滅ぼすなど活躍した。当初は五十公野家を継いでいたが、1580年、兄の死により家督を相続する。
1581年、織田信長と通じて北越後において謀反を起こす。これには理由が諸説あるが、有力説は御館の乱での恩賞の不満かららしい。重家は信長の支援のもと、上杉氏に対して攻勢を強めたが、1582年、本能寺の変で信長が横死すると急速に力を失い、一時は佐々成政とともに景勝の挟撃を図ったが、景勝が羽柴秀吉と手を組んだためうまくいかず、1587年、豊臣秀吉の支援のもとに反攻してきた景勝軍と戦って敗れ、自害して果てた。
重家の反乱が足掛け六年にも及んだことは、上杉氏の力の衰退を象徴するものでもあった。