三矢重松
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三矢 重松(みつや しげまつ 明治4年11月29日(1872年1月19日) - 大正13年(1924年)7月18日)は明治から大正にかけての国語学者・国文学者。所謂三矢文法を完成させ、「最後の国学者」と呼ばれる壮烈な学風で知られる。折口信夫の師。
明治4年11月29日(1872年1月19日)、出羽国庄内県鶴岡町大字二百人町(現在の鶴岡市)に生れる。父維顕、母は町子の二男。代々庄内藩に使えた士族の家で、祖父は藩校の典学を勤めた。
山形県尋常中学校に在学中、中台直矢、角田俊次に漢学を学び、庄内英学会において英語を身につけた。1889年、中学校卒業。翌年上京し、國學院に入学。この前後生家急迫し、貸費学生として苦学した。1893年、大学卒業後、文部省大臣官房図書課に勤務。のち岡山県高梁中学校教諭となり、さらに1998年大阪府立第五中学校に転じた。ここで折口信夫とはじめて出会う。
1999年、嘉納治五郎の聘に応じて神田猿楽町の亦楽書院に勤務する(中国からの留学生のための施設であった)。私学の講師などを経て、1903年、母校國學院の商議員を嘱託され、國學院雑誌、八代集抄、勅撰作者部類、神器考證、應問録、賀茂眞淵全集、中學國文講本などの編集発行に携わり、学者として一家をなすようになる。1908年、國學院国文学会設立とともに会長となり、1916年には源氏物語全講会を院内に設置。東京高等師範学校教授を兼ね、1921年には國學院大学においても教授に昇進する。1924年大学部部専任教授。「古事記に於ける特殊なる訓法の研究」によって文学博士となる。
1924年7月18日歿。享年53。
その学問的な業績としては『高等日本文法』にまとめられた文法の研究が第一にあげれられる。これは、江戸時代までの国文法と西欧の文法学を折衷させた大槻文法を踏まえつつ、それまで重視されなかった現代語文法による視点を加え、名詞の格、用言の法や動詞の性相、敬語の記述に修正を加えたもので、後の松下文法のさきがけをなす研究である。
他方、江戸以来の国学的な研究態度を重視し、人間形成の上で国学院時代に支持した折口信夫に大きな影響を与えた。特に日本人の心性を考えるうえで源氏物語を重んじ、源氏物語全講会を興して亡くなるまで講義をつづけたことは特筆に価するであろう。「価なき珠をいだきて知らざりしたとひおぼゆる日の本の人」という歌は源氏および源氏に代表される日本人の心のありようが軽んじられる世相を嘆いて詠んだものだといわれている。
折口は三矢を師として敬愛することきわめてあつく、源氏物語全講会を引き継いで開催し、祭主となって没後の祭りを行いつづけるなどした。