三浦義次
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三浦 義次(みうら よしつぐ、文政9年1月20日(1826年2月26日) - 明治16年(1883年)6月23日)は、美作勝山藩の第7代藩主。父は第5代藩主・三浦誠次(義次は三男)。母は岩淵氏。正室は松平斉民の娘。官位は従五位下。備後守。主計頭。
1826年正月20日生まれ。1839年、異母兄で先代藩主の三浦峻次が嗣子なくして死去したため、その後を継いで藩主となった。藩政に尽くしたが、1847年7月に大水害を受けて藩内が大被害をこうむるなど、その治世は多難を極めた。1848年11月22日、家督を養嗣子の三浦朗次に譲って隠居し、1883年6月23日に58歳で死去した。
法号:天徳院殿聖誉聡明知恵達大居士。墓所:岡山県真庭市勝山の安養寺。
- 三浦氏(勝山藩7代)藩主
- 1839~1848
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- 先代:
- 三浦峻次
- 次代:
- 三浦朗次