ヴィレム1世 (オランダ総督)
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オラニエ公ヴィレム(ウィレム)1世(Willem I, 1533年4月24日 - 1584年7月10日)はホラント州、ゼーラント州他の総督(在位:1572年 - 1584年)。オランダ独立戦争(八十年戦争)勃発時の中心人物。オランダ独立国家(ネーデルラント連邦共和国)の事実上の初代君主。「沈黙公」と呼ばれる。
[編集] 生涯
1533年、ヴィレムはドイツ中西部に位置するナッサウのディレンブルクで、ディレンブルク伯ヴィルヘルムの長男として生まれた。1544年、11歳の時に従兄のルネ・ド・シャロンが戦死したため、ルネが父(ヴィルヘルムの兄)ブレダ男爵ヘンドリック3世から相続していたネーデルラントの所領と、母方の叔父から相続していた南フランスのオランジュ(オランダ語でオラニエ)公国をともに相続して、オラニエ公ヴィレム1世となる。以後ヴィレムの家系はオラニエ=ナッサウ家と呼ばれる。ネーデルラントの君主であった神聖ローマ皇帝カール5世がナッサウ家の強大化を嫌ったため、ナッサウの所領は父から弟ヨハンに相続された。ヴィレムはカール5世に侍従として仕えて将来を嘱望され、1555年のブリュッセルでのブルゴーニュ公退位の式典でも、杖をついて歩くカールの腕を支える役目をしている。
1566年、フランドル州で反カトリック暴動が発生し、その反乱はネーデルラント各地へと広まった。当時、ネーデルラントを支配していたスペイン王フェリペ2世が重税などの圧政を行っていたため、まだプロテスタントが浸透していない北部にまで暴動は拡大した。
フェリペ2世は事態の収拾を図るため、アルバ公を1万ほどの軍勢とともに派遣した。ネーデルラント貴族はこの暴動の責任を問われ、有力貴族20人余りが処刑された。この際、オラニエ公ヴィレムはドイツに逃れており無事だったが、領地、財産の多くが没収された。
軍勢を整えて再起を図ったヴィレムは、弟のローデウェイク、アドルフらとともにスペイン軍に戦いを挑むが敗北し、今度はフランスに逃れた。非力なヴィレムは、海上で海賊軍団(ゼーゴイセン)を組織して、各地で略奪を繰り返しながら、徐々に勢力を回復した。1572年にはホラント州、ゼーラント州の総督となり、反スペイン勢力の中心となる。これを受けて、スペインの迫害を受けていたプロテスタントの多くがこれらの州へ流入するようになった。
ヴィレムは、1577年にユトレヒト州、1578年にはアムステルダムを自らの陣営に加え、1579年にユトレヒト同盟を結成、反スペイン陣営をまとめあげる。まもなく、アントウェルペン(アントワープ)などの主要都市も合流、1580年には残りの北部4州も合流した。一方で、ユトレヒト同盟の成立とほぼ同時期に、ネーデルラント南部の諸州はアラス同盟を結成し、フェリペ2世に対して協調的な姿勢をとった。
1581年、北部諸州は連邦議会において、フェリペ2世の統治権を否定した。教科書的な記述では、これを「オランダ独立宣言」と表現する場合が多いが、実際には「独立宣言」は存在しない。また、「独立宣言」によりネーデルラント連邦「共和国」が成立したとされるが、北部諸州は、その前年にフランス国王アンリ3世の弟を新たな君主として招く決定をしているため、共和政への強い志向があったわけではない。君主就任を要請したアンリ3世の弟はカトリック教徒である。従って、この戦争を単なる宗教戦争としてとらえることもできない。
スペインとの戦いが続く中、1584年にヴィレムは暗殺された。次男マウリッツが、後継者として1585年にホラント州、ゼーラント州の総督に就任する。その後、97年までに再び北部7州をまとめ上げ、対スペイン戦争を継続していった。
- オラニエ公
- 1544 - 1584
-
- 先代:
- ルネ・ド・シャロン
- 次代:
- フィリップス・ヴィレム