ヴィルヘルム4世 (ヴァイマール伯)
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ヴァイマール=オーラミュンデ伯爵家のヴィルヘルム4世 (Wilhelm IV., 1062年没)は、同名の父の死後、1039年に所領(ヴァイマール伯領)を受け継ぎ、1046年にマイセン辺境伯エッケハルト2世がなくなると、その地位を授けられた(マイセン辺境伯としては単に「ヴィルヘルム」と呼ぶ)。さらに彼は、母親のオーダがオストマルク辺境伯デード2世と再婚して、その継息子となっていたため、オストマルク辺境伯の地位をも与えられていたと推測され、そうであれば、エッケハルト1世がその手中にしていた地位のすべてを、彼が引き継いだことになる。(彼の継父のデードは、エッケハルト1世の娘マチルデの息子)
皇帝ハインリヒ3世の死後、彼はその未亡人アグネスに忠実に仕え、その名声を高めた。彼は、ハンガリー王エンドレ1世を助け、その弟ベーラ1世にむかう軍の総指揮官となった。ナウムブルク司教エッポが、この補佐にあたった。しかし、すぐに退却しなければならなかった。ヴィーゼルブルクの近くで奇襲を受け、勇猛果敢な抵抗を試みたが、両指揮官とバイエルン伯ボートは捕虜の身となってしまった。だが、ヴィルヘルムの勇敢さに感銘を覚えたベーラの息子ゲーザは、彼を単に解放するばかりか、娘のゾフィーと結婚させるよう父親を説き伏せた。ところが、翌1062年、ヴィルヘルムが帰途に病を患い亡くなったため、婚約者の娘は家に連れ戻されることになった。
この記事は、ウィキソースでも公開されているAllgemeinen Deutschen Biographieの記事に基づいて作成されたドイツ語版ウィキペディアの記事を翻訳したものです。