ロドニー・ヒース
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ロドニー・ヒース(Rodney Heath, 1884年6月15日 - 1936年10月6日)は、オーストラリア・メルボルン出身の男子テニス選手。1905年に始まった「オーストラレージアン・テニス選手権」(現在の全豪オープン)で、第1回大会の男子シングルス優勝者となった選手である。右利きの選手で、フォアハンド・ストロークのドライブ(順回転のボール)を得意にした。フルネームは Wilfrid Rodney Heath (ウィルフリッド・ロドニー・ヒース)という。
1905年11月、メルボルン市内にある「ウェアハウスマンズ・クリケット・クラブ」(Warehouseman's Cricket Club)で第1回「オーストラレージアン・テニス選手権」(Australasian Tennis Championship)が始まった。最初は男子シングルス・男子ダブルスの2部門のみが行われ、第1回の男子シングルスには17名の選手が参加した。11月27日にロドニー・ヒースとアーサー・カーティス医師(Dr. Arthur H. Curtis)による最初の決勝戦が行われ、第1セットをカーティスが 6-4 で先取したが、続く3セットをヒースが 6-3, 6-4, 6-4 で取り、オーストラリアにおける最初のグランドスラム大会の優勝者に輝いた。5年後の1910年、ヒースは第6回大会の決勝でホーレス・ライス(1907年大会優勝者)を 6-4, 6-3, 6-2 で破り、5年ぶり2度目の優勝を果たした。ヒースは男子ダブルスでも1906年と1911年の2度優勝し、第2回大会の1906年はアンソニー・ワイルディング(ニュージーランド)と、1911年はランドルフ・ライセット(イギリス)とペアを組んだが、この部門では1910年と1914年に2度の準優勝もあった。
その後1914年に第1次世界大戦が勃発し、ヒースは軍用航空機の操縦に従事した。第1次世界大戦が1918年に終結した後、ヒースは親友のランドルフ・ライセットとペアを組んで1919年のウィンブルドン男子ダブルス部門に出場した。決勝では同じオーストラリアペアのパット・オハラウッド&ロナルド・トーマス組に 4-6, 2-6, 6-4, 2-6 で敗れて準優勝になったが、こうしてヒースは全豪選手権以外の大会にも名前を残した。それから17年後の1936年10月6日、ロドニー・ヒースは故郷のメルボルンにて52歳で逝去した。
[編集] 全豪選手権の成績
- 男子シングルス:2勝(1905年、1910年)
- 男子ダブルス:2勝(1906年、1911年) [準優勝2度:1910年、1914年]
[編集] 関連項目
[編集] 参考文献
- 『我らのオープン-オーストラリア・グランドスラムの100年史』(英語、2004年刊、ISBN 1876176601、全豪オープン公式出版物)
- バド・コリンズ著『テニスのすべて-究極のテニス百科事典』(英語、2003年刊、ISBN 0973144343、スポーツ・クラシック・ブックス)
カテゴリ: オーストラリアのテニス選手 | 1884年生 | 1936年没