ロディ・パイパー
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”ラウディ”ロディ・パイパー("Rowdy" Roddy Piper、本名Roderick George Toombs 、1954年4月17日 - )(1950年、1952年説も有る)はカナダ・サスカチュワン州サスカトゥーン出身、オレゴン州ヒルズボロ在住の男子プロレスラー、俳優。またの名をホット・ロッド(Hot Rod)。スコットランド系カナダ人で入場曲はバグパイプで演奏され、試合以外の場面では常にキルトスカートを纏っている。
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[編集] 経歴
少年時代スコットランドに移住した経験があり、バグパイプの演奏法もその時学んだという。その後カナダに戻り、中学時代にボクシングの全カナダ王者に就いたが、拳を負傷しボクシングを断念、本人によれば15歳でプロレスラーとしてのキャリアをスタート。その後NWAロサンゼルス地区に渡り、ラフファイトを中心とする現在のスコッチギミックを確立、チャボ・ゲレロらとの抗争で人気を博す。1977年に新日本プロレスに来日、覆面を被りマスクド・カナディアンとして藤波辰爾と抗争。その後オレゴン地区、ミッドアトランティック地区へと転戦、ここで若手時代のリック・フレアーやグレッグ・バレンタインとNWA・US王座を争うライバルとして活躍。
マイクパフォーマンスが評価され1984年にマネージャーとしてWWFにスカウトされるが間もなくレスラーとして試合にも出場するようになる。パイパーズ・ピット(Piper's Pit)というインタビューコーナーを開始し、ジミー・スヌーカとの抗争で一気にブレイク、ハルク・ホーガンらスーパースターを敵に回してトップヒールとしての地位を築き上げる。ホーガンを相手に全くフォール負けを許さない唯一のライバルでもあった。1986年にはレッスルマニアⅡの舞台でロッキー3に出演したアクション俳優のミスター・Tとボクシングマッチを行なう。これに前後して映画俳優としての活動も行なうようになり1988年公開の「ゼイリブ」では主演を果たす。1992年にはインターコンチネンタル王座を獲得。同年のレッスルマニアVIIIでは王座をブレット・ハートに奪われたものの名勝負を繰り広げた。
1996年にWCWに移籍。1999年には16年ぶりにWCW・USヘビー級王座(現:WWE・US王座)を奪取するが、2000年に離脱。その後、WCWは消滅し、パイパーは元WCW勢が主催していたXWFに参加。この頃からレスラーとしてはセミリタイア状態にある。
2003年にWWEでホーガンとビンス・マクマホンが抗争を開始すると双方に遺恨を持つ人物としてインタビューに登場、レッスルマニア19のホーガンvsビンス戦に乱入しWWEに復帰。パイパーズピットを再開しショーン・オヘアのマネージャーを務めたが間もなく薬物使用で解雇される。
その後TNA参戦を経て、2005年にWWE殿堂入り(プレゼンターはリック・フレアー)してからはレジェンドとしてWWEに度々ゲスト参戦し、パイパーズ・ピットを開いている。2006年11月、WWEの大会サイバー・サンデーにおいて、長年の親友フレアーと世界タッグ王座を獲得。以外にもこれが生涯初の「世界」王座の獲得となった。
[編集] パイパーズ・ピット
パイパーがホストを務めるインタビューコーナー。1984年に開始。リング上に絨毯が敷かれる。大抵が対象となるレスラーに何かと因縁を吹っ掛け、乱闘になった挙句、抗争に発展するパターンである。特に第一回レッスルマニアへのプロローグとなった、ジミー・スヌーカの頭でココナッツを叩き割ったシーンは有名。このコーナーがパイパーのヒールとしての人気を決定付け、レスラーとしては体格に恵まれなかったパイパーを一躍スーパースターの仲間入りさせた。またマイクパフォーマンスを売りとしたパイパー以降、マイクパフォーマンスに優れたレスラーがスターダムに上がるようになり現在のアメリカンプロレスに与えた影響は非常に大きい。ザ・ロックも「ハルク・ホーガンよりもそれに唾を吐くロディ・パイパーになりたかった」と、尊敬するレスラーの一人として名前を挙げている。パイパーズ・ピットもその後、WWEではジェリー・ローラー(キングス・コート)、クリス・ジェリコ(ハイライト・リール)、カリート(カリートス・カバナ)、エッジ(カッティング・エッジ)などが同様のインタビューコーナーを行なっている。
[編集] 得意技
- スリーパーホールド
[編集] 外部リンク
- Rowdy Roddy Piper.com
- WWE Profile(RAW)
- WWE Profile(Hall of Fame)
カテゴリ: カナダのプロレスラー | 1954年生 | WWE