レナルト・メリ
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レナルト・ゲオルグ・メリ(Lennart Georg Meri、1929年3月29日 - 2006年3月14日)は、エストニアの政治家、作家、映画監督。エストニア独立運動の指導者として活躍した後、1992年から2001年までエストニア共和国大統領を務めた。
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[編集] 生い立ち
1929年3月29日エストニアの首都タリンにエストニア人の外交官でシェークスピアの翻訳家であったゲオルグ・メリの子として生まれる。メリは早くから外国で学び、いくつもの学校を渡り歩いた。その過程でメリは、フィンランド語、フランス語、ドイツ語、ロシア語、英語を習得し後の外交家としての基礎を形成した。
1940年独ソ不可侵条約の付属秘密議定書に基づき、エストニアがソ連に併合された後、1941年から1946年まで多くのエストニア人、ラトビア人、リトアニア人同様家族とともにシベリアに流刑となる。メリは樹木伐採労働者として厳しい労働に従事した。この流刑中にシベリアの少数民族の言葉に触れ、それらがエストニア語に近いフィノ・ウゴル語派であったことから、これらの諸言語の民族的、文化的研究がメリの生涯を通じてのテーマとなる。
1946年にメリ一家はシベリアからエストニアに帰郷する。1953年タルトゥ大学w:University of Tartu歴史・言語学部を優秀な成績で卒業し、クム・ラウデの称号を得る。しかし、ソ連の政治体制の中ではメリは歴史学者の道を選択することは適わなかった。メリはエストニア最古のヴァネムイネ劇場w:Vanemuineに劇作家の職を見つける。後にエストニア・ラジオに勤務し、放送劇のシナリオライターやプロデューサーを経て、映画監督となる。そして彼の制作した映画のいくつかは国内で高い評価を受けた。
[編集] 作家、映画監督として
1958年中央アジアに旅行し、天山山脈、カラクム砂漠などを訪れる。旅行後、メリは最初の著書を著し、広い読者の共感を得た。父ゲオルグがソ連当局によって3度目の逮捕を受けるが、メリは著作によって収入を得ることができた。しかし生活は苦しくタクシー運転手をしていた弟の援助によって一家は生活し、メリは研究を終えることができた。映画「銀河の風」The Winds of the Milky Wayは、フィンランドとハンガリーの協力で撮影された。ソ連国内では上映禁止となったが、ニューヨーク映画祭w:New York Film Festivalで銀メダルを受賞した。フィンランドの学校では、メリの映画や著作は教材として使用されるようになった。1986年ヘルシンキ大学w:University of Helsinkiから名誉博士号を受ける。1963年には既にエストニア作家同盟会員、1970年代にはフィンランド文学協会名誉会員に推戴されていた。
1964年カムチャツカ半島の記録映画「火の山脈の大地へ」Tulemägede Maaleを制作する。この映画の撮影スタッフには、地質学者、植物学者、写真家らも参加した。また、メリは紀行文も物し、1974年『北極光の門で』Virmaliste Väravalを著してソ連国内でも高い評価を得、1977年フィンランド語に翻訳されている。メリは本書において歴史的視野に基づいて現代を展望し、ジェームズ・クック、ヨハン・フォースターw:Johann Reinhold Forster、フェルディナント・フォン・ウランゲルw:Ferdinand von Wrangel、ダール、ゾイエル、アレグザンダー・フォン・ミッデンドルフw:Alexander von Middendorff、コクラン、その他の探検家を題材として扱っている。
1976年Hõbevalge、Silver White を著す。同書は、メリの最高の著作との評価を受けている。メリはこの中でエストニア並びにバルト海沿岸諸国の歴史の復元を試みた。そして、エストニア語が含まれるフィノ・ウゴル語派・バルト・フィン諸語について、そしてエストニア人とフィンランド人、そしてハンガリー人(マジャル人)の言語的親和性について研究を進めた。
1988年ヨーロッパとの文化交流やエストニア人学生の外国留学を目的として、非政府系民間学術機関・エストニア研究所を創設する。
[編集] 政治家として
1970年代になってソ連政府は、およそ20年ぶりにメリの出国を許可した。メリはフィンランド旅行を西側諸国にエストニアの存在を再認識させるべく粘り強く活動し、政治家、ジャーナリスト、亡命エストニア人と関係を構築した。エストニア人として最初にソ連政府の燐灰石鉱業計画に反対を表明した。こうしてエストニアにおける環境保護運動は、ソ連からの独立運動へと展開する。1988年エストニア人民戦線が結成され、メリは創設委員の一人に名を連ねた。エストニアはバルト三国を構成するラトビア、リトアニアと協力し、独立運動を加速させていく。1990年エストニアで自由選挙が行われた後に外務大臣に就任する。同年5月エストニアは独立回復を宣言する。外相としてのメリはCSCE(全欧安保協力会議)に出席するなど、エストニアのヨーロッパへの接近を念頭に置いた外交を展開する。1991年ソ連8月クーデター失敗後、エストニアを含むバルト三国はソ連から完全独立を獲得した。メリは駐フィンランド大使を経て、1992年10月、エストニア国会によって大統領に当選し、2期務めた。大統領としては卓越した外交感覚でヨーロッパ諸国への接近を推進するとともに、エストニア国内のロシア人にも配慮し、ロシアとの善隣関係を維持したほか、民族間の対立回避のため、民族問題円卓会議を設置してこの問題の処理に勤めた。
2005年から足に血栓が見つかり、闘病生活を続けていたが、2006年3月14日タリンで死去した。
[編集] 難民保護、民族浄化における犠牲者のための事績
メリは東欧革命による混乱で中欧、東欧などからドイツに流入した難民や民族浄化の被害者の人権保護に従事した。メリはフランツ・ヴェルフェル人権賞w:Franz Werfel Human Rights Award選考委員の一人として活動した。
[編集] 参考
- ワシントン・ポスト 2006年3月14日メリの訃報を知らせる記事
- Lennart Meri, portrait of a President - Baltic States City Paper
- Encyclopedia Britannica Lennart Meri
- Worldmark Encyclopedia of the Nations, Volume 6: World Leaders, 10th ed. Gale Group, 2001.
[編集] 著書
- "Tulemägede maale" (火の山脈の大地へ、1964年)
- "Virmaliste väraval" (北極光の門で、1974年)
- "Hõbevalge" (w:Silverwhite、1976年)
- "Lähenevad rannad" (近くの土地(近くの国)、Nearing Shores、1977年)
- "Hõbevalgem"(1984年)
[編集] 受賞歴など
- ソ連エストニア作家賞(1979年)
- ヨーロッパ科学芸術文芸アカデミー特派会員(1989年)
- ヘルシンキ大学名誉博士(1986年)
- 自由主義インターナショナル及びクーデンホーフ・カレルギー賞
[編集] 外部リンク
- エストニアの大統領
- 1992 - 2001
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- 先代:
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- 次代:
- アルノルト・リューテル