メジロムサシ
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性別 | 牡 |
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毛色 | 黒鹿毛 |
品種 | サラブレッド |
生誕 | 1967年2月22日 |
死没 | 1989年3月17日 |
父 | ワラビー |
母 | キヨハ |
生産 | 鍋掛牧場 |
生国 | 日本(栃木県黒磯市) |
馬主 | メジロ商事(株) |
調教師 | 大久保末吉(東京) |
競走成績 | 中央34戦10勝・海外2戦0勝 |
獲得賞金 | 1億2469万2800円 |
メジロムサシは日本の競走馬。同期に春のクラシック戦線を沸かしたタニノムーティエ・アローエクスプレスが居る昭和45年(1970年)世代。日本ダービーを『髪の毛の差』で逃したメジロオーの半弟である。
クラシック戦線では晩成型故に上記2頭とは比較にもならず、セントライト記念2着・菊花賞3着と、4歳時(当時の表記)は重賞未勝利に終わっている。父ワラビーのズブさも受け継ぎ本格化に時間を要した。ワラビーの産駒は他にナスノセイラン・ナスノヒエンの中山大障害制覇姉弟が居た様に、どちらかと言うと長距離に強い血統であった。
1971年春、折からの大雨で不良馬場となった天皇賞・春をオオクラ(ハイセイコーの叔父)と直線デッドヒートを競り勝って天皇楯を掌中に収めた。両馬とも500キロを超す巨漢馬であったが道悪馬場は非常に巧かった。次走の宝塚記念も一代先輩の僚友・メジロアサマを引き連れ勝利した。因みに、メジロムサシはメジロアサマと天皇賞の前走・目黒記念・春でもワンツーを決めており、当時『メジロ記念』とも呼ばれた(ムサシが優勝した)。更に、同年秋のハリウッドターフクラブ賞でもワンツーを決めている(この時はムサシが2着)。同年夏には、函館記念を62キロのトップハンデで優勝。この様なレースの選び方は現在では考え難い(当時は天皇賞が勝ち抜け制度だった為、斤量を背負わず走れるレースは宝塚記念・有馬記念と限られており、しかも『強い馬=重い斤量克服』の考えが主流だった事もあり、このレース選びは止むを得ない事であった)が、兎も角当時は最強馬の地位には登り詰めていたと言えよう。因みにメジロアサマは前年に同レースを58キロで優勝していた。
翌年(1972年)は仏国の凱旋門賞・米国のワシントンDCインターナショナルに日本代表として参加したが、どちらも振るわず着外(18着・7着)であった。
長距離で時計が掛かるレースに特に強かったが、海外遠征後はツキを使い果たしてしまったのか、引退種牡馬入り後に代表産駒となる筈だったメジロライデンの急逝等と、オーナーの愛情の助けがあったアサマに比べ見るべき所は無かった。