ムラト2世
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ムラト2世(1404年-1451年2月3日)は、オスマン帝国の第6代スルタン(在位: 1421年-1444年)(1446年-1451年)。第5代スルタン・メフメト1世の子。
1421年、父の死により即位する。父は他の兄弟から皇位を得るときに東ローマ帝国の援助を受けていたため、この頃のオスマン朝と東ローマ帝国は同盟関係にあった。ところが、オスマン朝が代替わりしたのを見て東ローマ皇帝・マヌエル2世パレオロゴスの子・ヨハネス8世パレオロゴスがアンカラの戦いで死んだと思われていた父の兄弟ムスタファ(この人物が本物であったかどうかについては不明。オスマン側では「偽ムスタファ」と呼び偽物と断じている)を対立スルタンに擁立し内政干渉を図ってきた。これに激怒したムラト2世はムスタファを打ち破って処刑すると、東ローマ帝国との同盟を破棄して軍を興し、東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスを包囲した。弱体化していた東ローマ軍はオスマン軍の敵ではなく、落とそうと思えば落とせたが、マヌエル2世が父を皇帝にしてくれた恩と類稀な文化人で優れた才能を持っていたということもあって、ムラト2世は自国に有利な和睦条約を結ぶこと(東ローマのオスマン朝への臣従など)で軍を返している。一説では本国で反乱が起こったためとも言われている。
1444年、ローマ教皇・エウゲニウス4世の命により、ブルガリアに侵攻してきたハンガリー軍(ヴァルナ十字軍)と戦って勝利を収めた。元々文化人の気質がありスーフィーに熱心であったことから、これを期に隠退して子のメフメト2世に帝位を譲る。しかし、若年のメフメト2世には官僚も従わず、遠征にも失敗したため1446年に自ら復位した。1448年、コソボでセルビアをはじめとするキリスト教国の軍と戦って、またも勝利を収め、東ローマ帝国を次第に圧迫していった。しかしムラト2世には東ローマ帝国を滅ぼすまでの意思は無かったようで、ヨハネス8世の後を継いだコンスタンティノス11世ドラガセスの即位を承認し和平条約を結んでいる。
1451年2月に死去し、後を子のメフメト2世が継いだ。