マヌエル2世パレオロゴス
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マヌエル2世パレオロゴス(ギリシャ語:Μανουήλ Β' Παλαιολόγος Manuel II Palaeologos 1350年 - 1425年7月21日)は東ローマ帝国末期、パレオロゴス王朝の皇帝(在位1391年-1425年)。皇帝ヨハネス5世の次男で、母親はヘレネ・カンタクゼノス。母方の祖父はヨハネス6世カンタクゼノス。中世ギリシャ語形ではマヌイル2世。
セルビアのドラガシュ家の娘ヘレナ・ドラガシュ(ヘレネ・ドラガセス)との間に7児をもうけ、ミカエル(1406年夭逝)、ヨハネス8世、テオドロス2世、アンドロニコス、最後の皇帝となるコンスタンティノス11世ドラガセス、デメトリオス(ディミトリオス)、トーマース(ソマス)らの王子がいる。
[編集] 生涯
父親の死期にオスマン帝国バヤズィト1世のブルサの宮廷において捕虜であったが、脱出に成功。早速バヤズィト1世によって帝都コンスタンティノポリスが包囲され、ニコポリスの会戦において西欧のキリスト教国軍が敗戦。もはや帝都の安全もままならなくなった。
1399年、マヌエル2世は西欧から支援を取り付けようと、イタリア諸都市国家やフランス王国、神聖ローマ帝国、イングランド王国を歴訪する。マヌエルは各地で歓迎を受けるが、具体的な援助を得られず結果としては失敗に終わってしまった。その間にオスマン軍の圧迫は強まるばかりであり、1402年になると皇帝不在の首都ではオスマン軍に街を明け渡そうかという議論まで行われていた。
そこへ意外なところから援軍が現れた。ティムールが小アジアへ侵攻し、迎え撃ったバヤズィトは1402年7月のアンカラの戦いで敗れて捕虜になったのである。その報を滞在先のパリで受けたマヌエルは帝都に帰ると、オスマン帝国のスルタン位争奪戦に介入し、自らが推したメフメト1世をスルタンにすることに成功。このためメフメト1世との間には友好関係が保たれ、オスマン帝国からの圧迫に小休止がもたらされた。
しかし、1421年にメフメト1世が死去してムラト2世が後を継ぐと、宮廷内では長男ヨハネスを中心とした対オスマン強硬派が台頭してきた。このため、マヌエルはヨハネスを共同皇帝にして実権を譲り、事実上引退した。ヨハネスは対立スルタンを擁立したが、1422年にムラト2世によって対立スルタンは打ち破られた。ムラト2世は勝った勢いに乗じてコンスタンティノポリスまで攻め寄せ、帝都はオスマンの大軍に包囲された。このため、引退していたマヌエルが復帰し、オスマン軍を外交で霍乱。オスマン軍を撤退させることに成功し、講和条約を結ぶことになった。しかし条約では東ローマ帝国はオスマン帝国スルタンに臣下の礼をとることを誓約させられた。もはや、東ローマ帝国には、オスマン帝国の顔色を窺いながら細々と生きるしか道は残されていなかったのである。
1425年7月、マヌエルは修道士マタイオスとして74歳で死去した。マヌエルは勝気な息子ヨハネス8世の行く末を心配し、「今の帝国に必要なのは皇帝ではなく、管理人なのだ」と大臣のスフランゼスに語っているほどだったが、最期にはヨハネスに「今後は、お前の好きなようにしなさい」と遺している。マヌエルは、もはや帝国の滅亡は避けられないものであると感じていたのかもしれない。実際、マヌエルの死から僅か28年後の1453年、帝国は最期の時を迎えるのである。
マヌエル2世はすぐれた文人であり、後に「パレオロゴス朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化最後の黄金時代を代表する人物の一人であった。帝国の維持に奔走しながら、忙しい政務の合間を縫って神学、修辞学、詩学の著作を執筆し、書簡集も遺している。
また、マヌエルは帝衣や皇冠をまとわず、喪服のような白衣を好んで身につけていたと言われ、廷臣からは悲しそうな瞳をした君主として記憶された。政治面で治績を残す機会には恵まれなかったが、したたかで粘り強い交渉者であり、「よりよい時代に生まれていたなら、さぞかし名君であったろう」と評されている。
[編集] マヌエル2世の語録
2006年9月12日、ローマ教皇ベネディクト16世が、訪問先の母国ドイツのレーゲンスブルク大学で講演した際、「ムハンマドが新たに何をもたらしたのかを教えてほしい。自らの説く信仰を剣で布教しろという命令など、邪悪で残酷なものしかない」[1]などとこの皇帝の言葉を引用し、イスラム教徒の強い反発を招いた。
- ↑ 出典は1391年頃に書かれた『あるペルシャ人との対話』の記述より(英語版より)。なお、ここでいう「ペルシャ人」はトルコ人のことである。マヌエル2世の治世は上記のように、イスラム教国家オスマン帝国にいつ滅ぼされてもおかしくない状況にあり、1393年にはバヤジィト1世がバルカン半島に残っていたキリスト教国の君主を集めて皆殺しにしようとしたと言われている。マヌエルの発言は当時彼と東ローマ帝国が置かれていた状況を反映したものだ、ということを踏まえておく必要があるだろう。
[編集] 参考文献
- 井上浩一著『生き残った帝国ビザンティン』(講談社現代新書)
- 井上浩一・粟生沢猛夫著『世界の歴史 第11巻 ビザンツとスラヴ』(中央公論社)
- 井上浩一著『ビザンツ皇妃列伝』(筑摩書房)
その他、東ローマ帝国#主な日本語の参考文献も参照のこと。
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