ミハイル・ロジャンコ
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ミハイル・ウラジーミロヴィッチ・ロジャンコ(Михаи́л Влади́мирович Родзя́нко、Mikhail Vladimirovich Rodzianko、1859年 – 1924年1月24日)は、帝政ロシアの政治家。「十月十七日同盟」(十月党、オクチャブリスト)の創設者の一人。
第3国会(ドゥーマ)副議長を経て、1911年アレクサンドル・グチコフの後任として国会議長に選出され、1917年2月に国会が解散されるまで議長を務めた。ロジャンコは、ロシア帝国末期の有力政治家の一人と見なされ1917年ロシア革命(二月革命)以降は、国会臨時委員会w:Provisional Committee of the State Dumaを主宰した他、皇帝ニコライ2世に対して退位を勧告している。
1920年ユーゴスラビアに亡命し、そこで死去した。ロジャンコの甥に当たるアレクサンドル・ロジャンコw:Aleksandr Rodzyanko は、白軍の指導者として国内戦を闘った。
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