ミハイル・フルンゼ
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ミハイル・フルンゼ(Михаил Васильевич Фрунзе, 1885年2月2日(ユリウス暦1月21日) - 1925年10月31日)はロシア革命前後におけるボルシェヴィキの指導者の一人。
フルンゼはトルキスタンのキルギスの村ビシュケクで生まれた。父はベッサラビア出身のルーマニア人農夫であった。1903年ロンドンで開かれたロシア社会民主労働党の第2回総会で、運営方針を巡り党がレーニン率いるボリシェヴィキとユーリー・マルトフの率いるメンシェヴィキに分裂した際、フルンゼはボリシェヴィキに参加した。
その2年後、1905年の第一次ロシア革命でフルンゼは繊維労働者を率いてデモを組織した。革命が失敗すると、フルンゼは逮捕され死刑を宣告されたが、その後減刑され重労働付きの終身刑となった。
シベリアの労働キャンプで10年間過ごした後、フルンゼは脱走しチタへ逃亡した。その地ではボリシェヴィキの機関誌の編集をしていた。
1917年2月革命が勃発すると、彼はミンスクの赤衛隊を率いて活動し、ベラルーシのソビエト議長に任命された。その後モスクワへと向かい、その地の赤衛隊を用いて町の制圧に貢献した。
1918年フルンゼはイワノヴォ地方の軍事担当人民委員に任命された。ロシア内戦が始まるとフルンゼは南方軍の司令官に任命され、オムスクでアレクサンドル・コルチャーク率いる白軍に勝利した。赤軍を束ねるレオン・トロツキーはフルンゼを東部戦線全体の総司令官に任命し、トルキスタンの白軍を制圧するよう命じた。
1920年11月フルンゼは最後まで白軍の統治下にあったクリミア半島を占領し、ピョートル・ウランゲリの率いる白軍の残党はフランスなどへ亡命した。続いてネストル・マフノが率いていたウクライナのアナーキスト運動を鎮圧した。
1921年フルンゼは党の中央委員会委員に任命され、1925年1月には陸海軍人民委員・革命軍事会議議長となった。グリゴリー・ジノヴィエフの支援を受けたフルンゼはヨシフ・スターリンと対決していたが、1925年10月31日腹部手術の際に死亡した。彼の死についてはスターリンの関与を疑う声も存在する。
遺体はクレムリンの城壁に葬られた。
翌年キルギスタンのビシュケクが彼を記念してフルンゼと改められた。1991年に名称は元へ戻されたが、街の通りや博物館には今もその名が付されている。
ソビエト連邦における最高峰の軍事教育施設であったフルンゼ軍事大学の名称も彼を記念している。モスクワの地下鉄駅にはフルンゼンスカヤという名称の駅が存在する。
- ソ連陸海軍人民委員(国防相)
- 1925年 - 1925年
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- 先代:
- レオン・トロツキー
- 次代:
- クリメント・ウォロシーロフ