メンシェヴィキ
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メンシェヴィキ(Меньшевики,Men'sheviki)はロシア社会民主労働党が分裂して形成された、社会主義右派である。メンシェヴィキとは「少数派」の意がある。
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[編集] 発端
1903年7月・8月の党大会で党規約を審議したさい、規約第一条の「党構成員の資格」をめぐって、意見の対立が生じた。レーニンは党員の資格を「党の組織の一つに個人的に参加する人のこと」と規定し、もう一つのユーリー・マルトフから提出された規約案では「党の組織の一つの指導のもとに規則正しい協力をする人のこと」という表現がされていた。
記述の上ではそれほど大きな差はないように見えたが、それ以前からレーニンがその著作『何をなすべきか』で組織され訓練された職業的な革命家たちによる小さな党を提唱していたことはよく知られたことだったので、党大会は規約第一条に関する議論で感情が高まり、できたばかりの党組織を分裂させることになった。大会の全投票において、反対28・賛成23をもってレーニン案は否決された。
ところが党指導部の母体となる雑誌『イスクラ』編集部をレーニンが制し、さらに党規約第一条のマルトフ案に賛成したブント(ロシアとポーランドのユダヤ人労働者総同盟)の4名が大会を離脱し、レーニン案を支持したものが残った結果として多数派となった。
さらに『イスクラ』の編集部から古参革命家であるヴェラ・ザスーリッチ、アクセリロート、ポトレーソフを解任することをレーニンが提案し、今や少数派となった「反対派」がそのことに反発し、新編集局と党中央委員会に自派の候補者を参加させることを拒否した。このときからボリシェヴィキとメンシェヴィキは別々の会議を持ち始め、お互いの誹謗中傷に熱中するようになる。
[編集] 第一次世界大戦まで
メンシェヴィキは党大会で一時少数になっただけで、党外のヨーロッパ社会主義運動では広い支持を獲得していた。特にドイツ社会民主党のカール・カウツキーは、レーニンの論文を自分の新聞に掲載することを禁じ、ローザ・ルクセンブルクはレーニンの「超中央集権主義」を非難したのであった。
メンシェヴィキは統率のゆるい集まりであり、強力な指導者がいない代わりに、古くからの有名な革命家を多く含んでいた。ゲオルギー・プレハーノフとともに1880年代に労働解放団を組織した仲間たちである。彼らはナロードニキからその政治活動を出発しマルクス主義を受け容れることで、農民ではなく工業プロレタリアートが革命の主体である、来るべき革命は「ブルジョア革命」である、との見解をとるようになった。
党の目的は工業労働者の生活改善(労働組合の公認・8時間労働・社会保険)を目指した啓蒙と煽動にとどまり、そこでは陰謀家やテロリストや地下活動家は必要とせず、ブルジョア自由主義者をも巻きこんだ公然たる活動のみが許される。メンシェヴィキは、革命の過程を分析して、それが意識的な活動によって促進できるものではないと信じていたので、本来からして理論家であった。
1905年のロシア第一革命のとき、メンシェヴィキ指導部は権力に参与せず「最も革命的な反対党として」とどまらなければならないとし、有効な活動をおこなうことができなかった。しかし党の下部では分裂が深まっていなかったために、ペテルブルク・ソヴィエトでは立場の違いを無視してボリシェヴィキと一緒に活動し、《北方の声Severnyi Golos》という共同の新聞を3号まで発行した。
1906年にボリシェヴィキとの会議をストックホルムで、1907年にロンドンで開催するが、ロシア帝国議会への対応をめぐって対立した。第一次世界大戦後1915年のツィンメルヴァルト会議に、マルトフがメンシェヴィキを代表して出席し、彼は戦争を「民族自決に基づいた、併合と賠償をともなわないブルジョア民主主義的な平和」をもって終わらせるよう主張し、ロシア革命のブルジョア性についての教義はまったく変わりなかった。
[編集] ロシア革命への態度と評価
1917年の2月に2月革命が勃発し、ソヴィエトがペトログラードに復活した時点では、メンシェヴィキが優勢であり、グルジア・メンシェヴィキに属するニコライ・チヘイゼがソヴィエトの議長であった。政府にたいする「合法反対派」を形成し、労働者多数派の支持を受けていた。
しかし革命が進行するにつれ、組織のゆるさが災いして統一した政策を打ち出すことができなかった。ロシアが戦争政策を継続するかどうか、レーニンをドイツのスパイとみなすかどうかの問題でもマルトフ率いる「国際主義者」と「社会愛国主義者」であるイラクリ・ツェレテリの一派が分裂してしまった。
10月25日にボリシェヴィキが中心となりペトログラード・ソヴィエトが臨時政府を倒した直後に開かれた会議上マルトフがボリシェヴィキの「純軍事陰謀」を非難し、それに対してトロツキーが「君たちはあわれむべき、孤立した個人である。君たちは破産者だ。君たちの役割は終わった。君たちは今からは、歴史の掃きだめへゆけ」と答え、メンシェヴィキたちは議決も待たずに退場する。
1918年1月の憲法制定議会では、ツェレテリがメンシェヴィキを擁護し、「後進国に社会主義経済を導入するという無政府的な企て」を論難した。一方、その年の5月にマルトフは、反革命にたいするボリシェヴィキの闘争に団結する、と宣言した。このように十月革命の正当性に関しても、メンシェヴィキの見解には統一がなかったのである。
1923年のマルトフの死とともに、残りの指導部の人々は次々とロシア国外へ亡命し、1921年に創刊されていた《社会主義・クーリエ》を機関紙として、1964年までアメリカにおける討論と宣伝を続けた。その編集の中心はフョードル・ダンとアブラモヴィッチであった。ダンはメンシェヴィキの自己批判を展開し、レーニンをはじめとするボリシェヴィキが歴史の動向を正しくとらえていたことを認めた。
一方アブラモヴィッチは、1917年のロシア革命と1949年の中国革命の意義を全否定し、それらの革命は失敗であり、東洋の専制主義をつくりだしただけだと論じ、アメリカが「核兵器の優勢」を活用してボリシェヴィキのたてた悪の帝国を粉砕することを希望した。
[編集] 「歴史の掃きだめ」へ
メンシェヴィキはロシア革命の「ジロンド派」と位置づけることができる。しかし歴史家の注意を引くこと少なく、プレハーノフ、マルトフの研究はほとんど行われない。ソ連が存在していた頃、「メンシェヴィキ」は共産党が罵倒のために用いる語であり、政敵を断罪するためにしか使われなかった。そして今日では、ロシア・マルクス主義右派の墓碑銘である。