ヘンリー・ボーフォート (第3代サマセット公)
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第3代サマセット公ヘンリー・ボーフォート(Henry Beaufort, 3rd Duke of Somerset, 1436年 - 1464年)は、イングランドの薔薇戦争中のランカスター派の主要な軍司令官である。記述によっては「第2代」となっているものもあるが、これは彼の父が伯父の死後に爵位を受け継いだのを「継承」ではなく「再創設」とみなした場合の数え方である。
サマセットはエドムンド・ボーフォートとエレノア・ボーシャン(ウォリック伯リチャード・ドゥ・ボーシャンの娘)との息子である。つまり彼は、マーガレット・ボーフォートやウォリック伯リチャード・ネヴィルの従兄弟にあたり、バッキンガム公ヘンリー・スタフォードの伯父にあたる。
サマセットは1455年の第1次セント・オールバーンズの戦いでランカスター派として戦った。そこで彼は重傷を負い、父親は殺された。彼は1460年のウェイクフィールドの戦いや1461年2月の第2次セント・オールバーンズの戦いといったランカスター派の勝ち戦では、中心的な指揮官として活躍したが、結局1461年3月のタウトンの戦いに敗れ、スコットランドに落ち延びている。
スコットランドに落ち延びた彼は、フランスの支援を受けるために大陸に渡ったが交渉は失敗、そこでしばらく拘束された後にフランドルに行き、スコットランド経由でイングランドに戻った。彼はノーサンバランドのいくつかの城に守備隊を置いていたが、そのうちの1つが攻城戦の末に降伏した事で、サマセットはヨーク派のエドワード4世と和平を結ぶ事にした。国王としては王位を安定的なものにするためにはランカスター派の指揮官を味方に引き入れる必要があったので、1462年3月10日に赦免してサマセットの失われた領土と爵位を復活させた。
次の年あたりまでの間、サマセットはエドワードに近侍し、宮廷に列席して軍事的なアドバイスをしていた。だが1463年の終わりに彼はランカスター派の側にこっそり戻り、急いで北帰して兵隊を集め始めた。彼はイングランド極北で、翌1464年5月まで持ちこたえたが、ヘクサムの戦いで敗北し、その後間もなく処刑された。彼はヘクサム修道院に埋葬された。
サマセットには嫡子がおらず、私生児のチャールズ・サマセットにはウスター伯を与えた。ウスター伯家はその後、侯爵に列せられ、さらにはボーフォート公に列せられる事になる。
爵位 | ||
先代: エドムンド・ボーフォート |
サマセット公 1455年 - 1464年 (1461年-1462年 剥奪) |
次代: エドムンド・ボーフォート |
先代: エドムンド・ボーフォート |
ドーセット伯 1448年 - 1464年 (1461年-1462年 剥奪) |
次代: 消滅 |