ヘブライ人への手紙
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ヘブライ人への手紙は新約聖書中の一書で、新約聖書中もっとも文学的な書であるといわれる。その理由はギリシア語の流麗さにあり、アレクサンドリアのクレメンスも絶賛していたとエウセビオスが記している。オリゲネスは(当時使徒パウロの手紙とされていた)『ヘブライ人への手紙』(以下ヘブライ書)は他のパウロ書簡とはギリシア語の見事さにおいて際立った違いがあると分析している。著者は不詳であるが、おそらくパウロ書簡がまとめられたあとの95年ごろに執筆されたと考えられている。本書が『ヘブライ人への手紙』と呼ばれるのはテルトゥリアヌスが『デ・プディチティア』の中でそう呼んで以来のことである。
目次 |
[編集] 解説
本書には二つの異なる要素を持つ部分が相互に組み合わされている。
- 神学・教義に関する部分(1:11-14、2:5-18、5:1-14、6:13-9:28、13:18-25)
- 倫理・道徳に関する部分(2:1-4、3:1-4:16、6:1-12、10:1-13:17)
ヘブライ書は旧約聖書(セプトゥアギンタ)からの引用が多く、パウロの二書簡からも引用している。おそらく『ローマの信徒の手紙』と『ガラテヤの信徒への手紙』の一部、『レビ記』の解説書とエルサレム神殿での礼拝における手引き書が著者の手元にあったと考えられる。神殿での礼拝に言及していることからエルサレム神殿の崩壊(紀元70年)前に書かれたという説もあるが、広い支持は得られていない。
[編集] 著者
使徒パウロではないかという説を初めとして、ヘブライ書の著者を巡る議論は古代以来続いてきた。かつてヘブライ書をパウロ書簡の一つとする分類法も行われていたが、やはり無理があるため現代では行われていない。たとえば本文中には他のパウロ書簡のような著者に関する情報が何もない。ヘブライ書に見られる思想そのものはパウロに近いが、文体や用法などは明らかに違っている。序文もパウロ書簡のそれとは異なっている。特にポイントとなるのは著者が他者からキリストの教えを受け取ったと語っている部分である。パウロは『ガラテヤの信徒への手紙』の中で自分がイエス自身から福音を受けたことを強調する。
パウロ以外で著者という説がるのは、パウロの協力者シラス、『クレメンスの第一の手紙』の著者とされる教皇クレメンス1世、福音記者ルカ、アレクサンドリアの無名のキリスト者などである。テルトゥリアヌスは『使徒言行録』に現れるバルナバが著者であるといっている。マルティン・ルターは同じく使徒書に現れるアポロが著者であるという説を示した。現代の聖書学者たちも著者については特定の結論に至っていない。にも関わらずヘブライ書は一貫して正典として受け入れられてきた。
[編集] 新約聖書中での位置づけ
ヘブライ書はしばしば公同書簡という位置づけがされるが、それは誤りである。なぜならヘブライ書は明らかに特定のキリスト者にあてられたものだからである。ヘブライ書はこのような理由で近代以降の新約聖書ではパウロ書簡と公同書簡の間に置かれている。
[編集] 書簡のあて先
ヘブライ書は特定の状況下に置かれたキリスト者のグループにあてて書かれた。ヘブライ書を注意深く読むと本書のあて先となった人々が以下のような特徴をもっていたことをうかがい知ることができる。
- セプトゥアギンタの形で旧約聖書を知る改宗者であること。
- 13:14と13章の罪のリストからは都市生活者であること。
- 10:32-34からは一度迫害にあったこと。その迫害はそれほど過酷なものではなかった(12:4)が、再び迫害にあう可能性が予見されている。(12:1-3、13:12-13)
- 一部の人々は神殿における儀式にはもう参加していない(10:22)。いまだに儀式に参加している人たちはそれによって自らの信仰が揺らいでいる。
- おそらくユダヤ教から改宗したキリスト教徒でありながら、再びユダヤ教へ戻ることを考えている人々であろう。著者はユダヤ教の動物の犠牲はキリストの十字架での犠牲の後では意味を持ち得ないことを強調し、「幕屋の外で」(すなわちユダヤ教を離れて)キリストに従うことを求めている。
- 13:14で著者はイタリアの信徒たちからの挨拶を伝えている。これは本書がイタリアで書かれたことをうかがわせる。
ユダヤ人キリスト教徒にあてられたという説は有力ではあっても決して全ての人が認めているわけではない。本書は(このようなタイトルがつけられたことからもわかるように)二世紀以来、ユダヤ人キリスト教徒にあてられたと見られていた。アメリカのリベラル神学者エドガー・グッドスピード(Edgar Goodspeed)はユダヤ人キリスト教徒説を支持していない。彼は「著者のユダヤ教知識は経験に裏打ちされたものというより、セプトゥアギンタなどの書物などから得た観念的な知識のように思える。またそのギリシア語の流麗さを考えれば、これがアラマイ語を用いていたユダヤ人キリスト教徒にあてた手紙であるとは考えにくい。」といっている。
[編集] 執筆の目的
著者はモーセの律法の、従来考えられていた意味をとらえなおし、そこに新しい意味を与えようとしている。 またレビ族の祭司職はキリストの祭司職の予型であるとし、ユダヤ教の犠牲の式はキリストの十字架の予型となったという。さらに福音はモーセの律法を更新するものでなく、廃止するものであるという。初代教会に存在したエビオン派という、ユダヤ教の習慣をすべて維持したままキリスト教徒になった人々に対する批判として書かれたと見ることができる。本書簡ではパウロのキリスト論を繰り返し引用しながら新しい契約が古い契約にとって変わったということを強調している。