フランツ・シャルク
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フランツ・シャルク(Franz Schalk, 1863年5月27日 - 1931年9月2日)は、オーストリアの指揮者。作曲家。
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[編集] 生涯
シャルクは、19世紀末期から20世紀初頭に活躍した生粋のオーストリア・ヴィーンの指揮者である。
兄は、ピアニストのヨーゼフ・シャルク。兄弟揃ってヴィーン楽友協会音楽院でアントン・ブルックナーに従事し指揮法と作曲学を学ぶ。然し、後にシャルクがブルックナーの一般普及を目差し改変した版が知られているが、19世紀末期はブルックナーの音楽に対する拒絶反応が強く更に認知度も低く、曲自体が冗長過ぎるとの批判を受けスコアを短縮したものを公刊(シャルク版)し、現代では原典版を無視した改悪との批判を受ける。
ハイドン、モーツアルト、ベートーヴェン、シューベルト、リヒャルト・シュトラウス等の作品の演奏を得意とした反面、ストラヴィンスキー等の現代音楽は不得意で観客の評判も芳しくなかったと伝えられている。
シャルクは、リヒャルト・シュトラウスと共にヴィーン国立歌劇場総監督を務めたが、両者の性格は水と油ほど異なり、やがて犬猿の間柄から喧嘩別れの様にしてシュトラウスが去っていたと伝えられている。
指揮者ブルーノ・ワルターは、自伝の中でシャルクを最初は常に薄笑いを浮かべ正体不明で何を考えているのか全く理解が出来なかった人物だとしながらも、ザルツブルクで或る席で同席したのがきっかけで意気投合し、その後、ヴィーン国立歌劇場に対するシャルク自身の犠牲を顧ぬ献身的態度や、晩年に於ける芸術的成長に就いて並々ならぬ高評価を与えており、晩年のシャルクが病に倒れ重態に陥り指揮台に立てなくなった際に、ザルツブルクでの指揮をワルターに依頼するほど親密な仲に発展したという。
[編集] 業績
シャルクは教育者として指揮者育成の為の教育にも熱心に携わり、クレメンス・クラウスやカール・ベームに影響を与え、ヘルベルト・フォン・カラヤンやアルトゥール・ロジンスキー、ハンス・スワロフスキー等を育てた事でも知られている。
[編集] 演奏スタイル
シャルクの演奏に共通するのは、ポルタメントを多用しつつトリオの部分で3和音をフォルテで弾かせると言う特徴があり、言い換えれば、19世紀の演奏スタイルを墨守していたと言える。
[編集] 録音
- Beethoven: Symphonie Nr.5 c-moll 1929年10月14日 - 10月20日
- Beetohven: Symphonie Nr.6 F-Dur 1928年4月4日 及び、11日録音
- Beetohven: Symphonie Nr.8 F-Dur 1928年4月4日 及び、11日録音
- Beethoven: Leonoren Ouverture Nr.3 1928年4月13日 及び、15日録音
以上は、ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏で全部英HMVから発売されたが、ベートーヴェンの田園はヴィーン・フィルの電気録音として最初のものである。
また、運命は第1楽章冒頭のアインザッツが揃わず音が4つ鳴る事で知られている。
- Schubert: Symphonie Nr.8 b-moll Unvolendete 1929年5月録音
イギリス、及び、日本パーロフォン・レーベルではベルリン大交響楽団、ドイツ・オデオン、及び、コロンビア・レーベルではベルリン国立管弦楽団標記であるが録音は全く同じものである。両方のオーケストラの実体はベルリン国立歌劇場管弦楽団の演奏会用メンバーに拠るものである。
また、シャルクの死の年に英HMVに、ベートーヴェンの交響曲第5番第1楽章、及び、交響曲第8番全曲をヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団と再録音したが未発売である。
1931年1月31日録音
[編集] 参考文献
- 主題と変奏(ブルーノ・ワルター著・白水社)
先代: ハンス・グレゴール |
ウィーン国立歌劇場総監督 1919–1929 |
次代: クレメンス・クラウス |
カテゴリ: オーストリアの指揮者 | オーストリアの作曲家 | 1863年生 | 1931年没