ファハド・ビン=アブドゥルアズィーズ
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ファハド・ビン・アブドゥル=アズィーズ・アール=サウード(アラビア語: فهد بن عبد العزيز آل سعود Fahd ibn ʻAbd al-ʻAzīz Āl Saʻūd、1923年 - 2005年8月1日)、二聖モスクの守護者は、サウジアラビア王国第5代国王。
[編集] 来歴
1923年、リヤド生まれとされるが、正確な生年月日は不明。1953年文相、1962年内相に就任。その後は石油・投資諮問会議や高等教育諮問会議の議長を務め、ファイサル国王の右腕としてサウジアラビア近代化に貢献。1975年には皇太子・第1副首相となり、病弱なハーリド国王を補佐して内政・外交両面で政治手腕を発揮。1982年6月12日、ハーリド国王死去に伴いサウジアラビア王国第5代国王に即位。親米・穏健路線の主導者。1995年に脳卒中で倒れるなど、健康不安が続いていたが、2005年8月1日にリヤド市内の病院で死去した。
[編集] スデイリ・セブン
ファハドは、初代国王アブドゥルアズィーズが数多くの妻の中で最も寵愛したハッサの息子である。ハッサが産んだファハドを含む7人の男兄弟たちは、サウード家の最有力派閥として政府の重要なポストを占め、ハッサが有力部族スデイリ家出身であることから、スデイリ・セブンと称された。スデイリ・セブンとその子や孫たちはサウード家の中での権力を掌握してきたのだが、1995年ファハドが脳卒中で倒れるなど健康を害したことに始まり、スデイリ・セブンも高齢に達し、世代交代も進んできたことにより新たな派閥が形成されてきている。
[編集] 称号
陛下の称号を辞退し、領内にマッカとマディーナのモスクを有することから、二聖モスクの守護者(خادم الحرمين Custodian of the Two Holy Mosques)と称していた。これは世俗的王権性を否定し、伝統的称号を用いることで、国是としてのワッハーブ派に配慮したためである。
カテゴリ: サウジアラビアの国王 | 1923年生 | 2005年没