ピーター・ゲシン
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F1での経歴 | |
国籍 | イギリス イングランド |
活動年数 | 1970 - 1974 |
所属チーム | マクラーレン, BRM, ローラ |
出走回数 | 30 |
タイトル | 0 |
優勝回数 | 1 |
通算獲得ポイント | 11 |
表彰台(3位以内)回数 | 1 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1970年オランダGP |
初勝利 | 1971年イタリアGP |
最終勝利 | 1971年イタリアGP |
最終戦 | 1974年イギリスGP |
ピーター・ゲシン(Peter Gethin, 1940年2月21日 - )は、イギリスのレーシングカー・ドライバーで、F1において1勝を挙げている。ヨーロッパF5000では2度の年間チャンピオンになっている。
目次 |
[編集] F1以前
1965年から1968年まで、F3にロータス・ブラバム・シェブロンから出場、非選手権扱いのレースを含めて4年で9勝を記録。
1969年から1970年まではF1車両と混走で実施されることでも有名なF5000に出場。1969年はヨーロッパF5000イギリスGPを含めて4度の優勝で年間チャンピオンになった。この年はアメリカF5000でも参戦、1勝している。1970年も8度の優勝で圧倒的な2シーズン連続ヨーロッパF5000チャンピオンになっている。
[編集] F1出場
1970年、創設者ブルース・マクラーレンがテスト中の事故で死亡、大混乱していたマクラーレンチームはブルース・マクラーレンの後釜として、マクラーレンがF5000で出場させて優秀な成績をあげていたゲシンを指名。1970年の第5戦オランダGPでゲシンはF1デビューした。第8戦からレギュラードライバーとして定着、第11戦のカナダGPで6位入賞、1ポイントを獲得する一方でヨーロッパF5000では圧倒的な強さで年間チャンピオンになっている。
翌1971年もマクラーレンからエントリーするが、ゲシンもチームも成績は全く振るわず、第8戦オーストリアGPからBRMへ移籍。第9戦イタリアGPでは初優勝を果たす。このイタリアGPでは、スリップストリームの応酬で26回もラップリーダーが入れ替わり、ゴール時には0.61秒差で5台がゴールに雪崩れ込むという混戦を制し、優勝平均速度242.616km/hという当時の新記録は以後32年も破るものが現れなかった。
1972年もBRMからフル参戦するが、年間で6位入賞が1回のみと極端に成績が振るわず、年末にシートを失う。同年ヨーロッパF2にも参戦、そのうち1戦で優勝している。
その後はヨーロッパF5000に戻り活躍する傍ら、1973年の第14戦カナダGPと1974年の第10戦イギリスGPにスポット参戦するものの、共にリタイヤに終わっている。ゲシンのF1参戦はこれで終わりを迎えたが、1971年イタリアGPで優勝した以外は目立った成績を残せず、通算成績では実に平凡なドライバーである。後年にその名が語られるのは、イタリアGPでの史上最高速度の記録に関連する時のみであった。全体的に予選での成績が悪く、マシンの影響もあって決勝でも完走率が低い。
[編集] F1引退後
F5000へ戻り、1975年までヨーロッパF5000に参戦。F1参戦以前からの通算で21勝、2度の年間チャンピオンを獲得。
その後ドライバーのマネジメント業を行う。1985年にはトールマンのマネージャとして働くが、この年トールマンに所属していたアイルトン・セナがトールマン側に何の通告もなくロータスへ移籍してしまい、その騒動の煽りでトールマンから身を引く。