パウル・ウィトゲンシュタイン
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パウル・ウィトゲンシュタイン(Paul Wittgenstein, 1887年3月11日 - 1961年3月3日)は、オーストリア生まれのピアニスト。第一次世界大戦で右腕を失ったものの演奏活動を続け、多くの有名な作曲家に左手だけで演奏可能な作品を委嘱したことで有名。なお、彼は1946年にアメリカ合衆国の市民権を取得した。
[編集] 生涯
実業家カール・ウィトゲンシュタインの息子としてウィーンに生まれる。2歳年下の弟に、有名な哲学者ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインがいる。多くの著名な文化人がウィトゲンシュタイン家を訪問している。その中には作曲家ブラームス、マーラーそしてリヒャルト・シュトラウスもいた。若きパウルはこれら作曲家と連弾で演奏もしたという。
パウルは、はじめマルヴィン・ブレーに、後にポーランドの巨匠テオドル・レシェティツキに師事、1913年にはデビューを飾っており、演奏評は概ね好意的なものだった。しかし翌年には第一次世界大戦が勃発、パウルは召集される。彼はポーランド戦線で戦傷を負い、ロシア軍の捕虜となる。そしてこの戦傷のため彼の右腕は切断しなければならなかった。傷が回復するにつれ、彼は左腕だけで演奏活動を続ける決心を固めた。
終戦とともに彼は行動を開始する。練習を重ね、様々の作品を左手だけのために編曲し、またかつての師ヨーゼフ・ラボール(ラボール自身は盲目であった)がパウルのために作曲した作品を習得した。こうして再びコンサート活動を再開したパウルは有名になり、多くの人々に愛された。そこで彼はより有名な作曲家たちにも、彼のための曲を作曲してもらえるよう交渉した。ブリテン、ヒンデミット、コルンゴルトなどが求めに応じて作曲した。中でもモーリス・ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」は有名であり、パウル・ウィトゲンシュタインの名もこの曲で後世に残ることになった(しかしながら、初演時にパウルは、ピアノ・パートを大幅に書き換え、ラヴェルといさかいを起こしている。しかし後年に他人の演奏を聞いてから、自分の非を認め、作曲者の判断が正しいとした)。プロコフィエフもパウルのために左手のための「ピアノ協奏曲第4番 変ロ長調」を作曲しているが、パウルはこの曲を好まず(『一音符たりともも理解できない』とまで言い切っている)、公開の場で演奏することはなかった。
今日でもパウルの委嘱した作品は(両腕の)ピアニストによって頻繁に演奏されている。また様々の理由で右腕の機能を失ったピアニスト、例えばレオン・フライシャーやホアン・カルロス・マルティンス、舘野泉もこれらの作品を演奏してきた。
ウィトゲンシュタイン家は、パウルの父系で3代前、母系で2代前にキリスト教に改宗していたが、それでもユダヤ系の強い家系であり、特にニュルンベルク法のもとではユダヤ人と分類されるものだった。ナチ党の政権掌握、そして1938年のドイツによるオーストリア合邦に伴い、パウルは彼の2人の姉妹にウィーンを離れるように説得しようとする(弟ルートヴィヒは数年前からイギリスに渡っていた)。しかし2人の姉妹は出国を渋っていた。彼女らは自分たちの家に深い愛着を感じていたし、また、ウィトゲンシュタイン家のような著名な一家に本当に危険が迫っているとは信じられなかったのである。パウル自身はナチス政権のもとで公開のコンサート活動を禁止されており、1938年にアメリカに向け出国した。パウルとルートヴィヒは海外から、既に国外に移転していた一族の資産と法律家たちへの「コネ」を利用することで姉妹の「非ユダヤ人」認定を得ることに成功した。
パウルは1946年にアメリカ合衆国の市民権を取得し、余生を同国で、おもにピアノ教育者として過ごし、1961年にニューヨークで死去した。
[編集] ヴィットゲンシュタインが委嘱した作品
- ピアノ協奏曲(左手のための)、2つのヴァイオリン、チェロと左手のピアノのための組曲Op.20
- 家庭交響曲余録 (左手ピアノと管弦楽)
- パン・アテナ神の大祭Op.74 (左手ピアノと管弦楽)
- 管弦楽を伴ったピアノ音楽(左手のための)Op.29(1923年)
- ヴィットゲンシュタインは一度も演奏せず、遺族も封印してしまっていたが、2003年に自筆譜が売却されたためようやく出版され、2004年にレオン・フライシャーによって初演された。
- 主題と変奏(ディヴァージョンズ)Op.21 (左手ピアノと管弦楽)
[編集] 外部リンク
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