バプテスト教会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
バプテスト(―英:Baptist)は、プロテスタント教派のひとつ。バプテスト派の「バプテスト」とは、バプテスマ(浸礼)を行う者の意味に由来し、英国の分離派思想から発生したキリスト教プロテスタントの教派の一つである。
バプテストは17世紀ごろにイギリスで始まり、現在では米国に最も多く分布している。米国の宗教人口はプロテスタントが最も多いが、その中で最も多いのがバプテストである。アメリカNo.1と言われるこの保守派に属するバプティスト派、殊に南部バプテスト連盟は、米国の非カトリック教派団体として最大の規模を誇る。
バプテスト派は、アルミニウスの流れを汲む普遍救済主義を支持するジェネラル・バプテストと、ジャン・カルヴァンの流れを汲む予定説を支持するパティキュラー・バプテストとに分かれる。現在はパティキュラー・バプテストが数において優勢である。米国のジェネラル・バプテストは存続を保っているが、英国のジェネラル・バプテストはパテキュラー・バプテストに吸収されつつある。米国のパティキュラー・バプテストは、奴隷制度に関する意見の対立以降、米国バプテスト同盟(旧称:北部バプテスト同盟)と南部バプテスト連盟とに分裂した。
日本にはおもに米国から19世紀末にパティキュラー・バプテストが伝わったが、ジェネラル・バプテストによる宣教もなされている。ほか、アフリカなどへの布教もなされている。
目次 |
[編集] 教義
[編集] 福音主義
マルチン・ルターが始めた福音主義よりも更に急進的な立場で、聖書を唯一の信仰のよりどころとし、特に保守派または原理主義の間では、聖書の逐語的無謬説または逐語霊感説が支持されている。しかし、一方で日本バプテスト連盟などの一部にそれらの説を取り入れずに自由な読み方(自由主義)を重んじる教派もある。
[編集] 万人祭司
教会で牧師が信仰を導くが、牧師も含めすべての信徒は平等であるとする万人祭司主義である。
[編集] 会衆制(各個教会主義)
教会を別名会衆(かいしゅう)とよび、会衆の上部に組織を置かず、各教会が任意に加盟する教会の連合体があったとしてもそれとの間に従属関係はない。また牧師の就任は、必ず会衆の等の按手によるものとする。会衆主義の中でもセパラティスト(別名独立派)としての傾向が強い。
[編集] 全浸礼
バプテスマとは一般に洗礼と呼ばれる儀式のことであるが、バプテストでは特にこのときに全身を水に沈める(全浸礼)こと、また、信仰告白を行うことが重要であるとする。バプテスト諸教会では、洗礼の語を避け、浸礼、またはバプテスマと呼ぶ。
従って、信仰告白のできない新生児がバプテスマを受けること(幼児洗礼)を否定するのが特徴的である。また、教会によっては、全浸礼によらない洗礼(滴礼)をバプテスマと認めず、他教派(聖公会、ルター派、改革・長老派などバプテスト以外の諸教派)で洗礼を受けたクリスチャンが教会に転入する場合に再浸礼を求められる。
[編集] 歴史
[編集] 発祥:イギリス
ロバート・ブラウン(Robert Browne)により始まった英国国教会分離派の思想は、やがてジェネラル・バプテスト派の母教会の牧師ジョン・スミス(John Smyth)に受け継がれる。スミスはトマス・ヘルウィス(Thomas Helwys)に恩師として影響を与えた。ただし、当時ウォーターランド派メノナイト(大陸再洗礼派)との合併を考えていたスミスが、ヘルウィスに対して具体的にどれだけの影響を与えたかは、教理史的議論の決着がなされていない[1]。世俗の権威についての説をめぐる対立から、ジョン・スミスはヘルウィスによって破門される。のちヘルウィスらは1612年、ロンドンでジェネラル・バプテスト派の教会を立てた。ジェネラル(普遍)の名は普遍救済説を採るところからくる。これによればキリストは万人の救いのために死んだと信じられる。
パティキュラー・バプテスト派は、元英国国教会司祭であったヘンリー・ジェイコブ牧師により発足した非分離派会衆主義教会から、より分離派的教会を求めて離脱した者らが、1642年に再浸礼を行って教会を新設したことにはじまった。この再浸礼は次のように伝えられている。離脱した者の一人リチャード・ブラントがオランダの浸礼実践グループから指導を受けてロンドンに帰国し、まず離脱者の指導者ブラックロックに浸礼を授け、そしてブラント自身がブラックロックに浸礼を受ける。そして、この二人が他の51名に浸礼を授けたとされている。そして、1644年、彼らは「第一ロンドン信仰告白」を公表した。
[編集] アメリカ合衆国
北米では、アメリカ合衆国に主に伝わり、19世紀半ば、奴隷問題をめぐって南部と北部に分裂した。
19世紀、米国のパティキュラー・バプテスト派は、3年毎に召集される定期総会において、奴隷問題と国外伝道政策を議題として取り上げた。1844年12月17日の定期総会では、奴隷所有者(slave master)が宣教師採用に出願した場合、「われわれは彼を任命することはできない。確実なこととして、われわれは決して奴隷制度に賛成を暗示するようないかなる協定にも関係することはできない[2],[3]」と明言した。これに対し、南部のバプテスト信者は、従来の定期総会の決議を覆すものだと強く反対し、1845年に定期総会から分離して「南部バプテスト連盟」を組織した。
一方、定期総会に立脚した側は、「アメリカ・バプテスト宣教連合」を組織し、1907年に米国のバプテストの諸教団が合同し「北部バプテスト大会」、1950年「アメリカ・バプテスト大会」、1972年「アメリカ合衆国におけるアメリカ・バプテスト教会(ABC/USA : American Baptist Church in USA)」と改名して現在にいたる。
19世紀初期から、黒人(アフリカ系アメリカ人)バプテスト系の少人数の組織が存在し、1860年代には黒人バプテストの州連盟が組織されるようになる。1895年これらはナショナル・バプテスト連盟を結成、現在は米国ナショナル・バプテスト連盟、アメリカのナショナル・バプテスト連盟、進歩主義ナショナル・バプテスト連盟のアフリカ系米国人バプテスト連盟の成立に至っている。近年、これらのアフリカ系米国人バプテストの諸教会は、アメリカ・バプテスト教会や南部バプテスト連盟の諸教会と提携するようになった。
南部バプテスト連盟は、米国南部において実質上国教化したといわれるほどに成長し、現在の教勢は米国の北部、さらにカナダにまで及んでいる。しかし、アメリカ・バプテスト教会の教勢は、南部バプテスト連盟とは対象的に米国北部地域にほぼ限定されている。
なお、南部バプテスト連盟は、2004年6月16日の年次総会において、世界バプテスト連盟からの脱退を正式に決定した(キリスト新聞より)。
[編集] 日本
日本のバプテスト教会は、プロテスタント諸派のなかでも比較的早くに成立した。歴史的事情、とりわけ宣教師を派遣した母体により、いくつかの組織に分かれる。
1873年にアメリカ・バプテスト宣教連合(後「北部バプテスト」)はネーサン・ブラウンとジョナサン・ゴーブル両牧師を日本に派遣した。同年、横浜第一浸礼教会(現在、日本バプテスト横浜教会)が設立された。これは日本における2番目のプロテスタント教会となった。1884年には横浜バプテスト神学校が設立された(現在の関東学院大学の母体)。この流れは現在の日本バプテスト同盟につながっている。
南部バプテスト連盟からはマッコーラム、ブランソンの二宣教師が1889年に初めて来日した。これに先立ち1860年に日本に宣教師が派遣されたが、太平洋上で難破し行方不明となっている。来日した二人とその家族は神戸に上陸して日本語を学習し、九州を中心に宣教した。また1916年には宣教師C・K・ドージャーが福岡にミッション系学校西南学院(現在の西南学院大学の母体)を設立した。これは現在の日本バプテスト連盟につながっている。
沖縄には1891年に日本人伝道師原三千之助が派遣され、教会や講義所が建設された。後にこれらの建物は沖縄戦のなかで失われた。沖縄のバプテスト教会はのちに沖縄バプテスト連盟として組織される。
1941年日米開戦の見込みが深まる中、おもに米国籍だった宣教師たちは帰国していった。最後までとどまったものも1942年には捕虜交換船で帰国した。
1941年、国策により教会合同がなされ、プロテスタント諸派は日本基督教団に合流した。これは戦後も続いたが、1947年、南部バプテスト系の教会が離れ、日本バプテスト連盟を作った。1958年、アメリカ・バプテスト系教会の一部も離れ、日本バプテスト同盟を作った。日基教団内に残った教会は教団内グループとして「新生会」を結成している。
これらの流れとは別に、バプテストを称する教会には日本バプテスト・バイブル・フェローシップがある。これは1949年、米国バプテスト・バイブル・フェローシップ諸教会から宣教師が派遣され、始まったものである。他には保守バプテスト、単立バプテスト・日本福音同盟に加盟している日本バプテスト教会連合などがある。
[編集] 文献と外部リンク
[1] 斎藤剛毅 著, “バプテスト教会の起源と問題 : 信仰の自由を求めた人々,” ヨルダン社, 1996.
[2] “Reply of the Acting Board,” in Robert A. Baker, A Baptist Source Book (Nashville: Broadman, 1966), pp. 109-113.
[3] E. ルーサー・コープランド 著, 八田正光 訳, “アメリカ南部バプテスト連盟と歴史の審判(ひとつの根源的な罪の痕跡),” 新教出版社、2003.
[4]森島牧人 著, “バプテスト派形成の歴史神学的意味,” 燦葉出版社, 1995.
[編集] 関連項目
[編集] 補足説明
[編集] 外部リンク
[編集] 信条(英語サイト)
ジェネラル・バプテスト
パティキュラー・バプテスト
- 1644 London Confession
- 1689 London Confession
- 1742 Philadelphia Confession
- 1833 New Hampshire Confession
南部バプテスト?