ハンス・プフィッツナー
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ハンス・プフィッツナー(Hans Pfitzner, 1869年5月5日 ロシア モスクワ - 1949年5月22日 オーストリア ザルツブルク)は、ドイツの作曲家・指揮者で、反モダニズムの芸術家を自称。
[編集] 生涯
フェルッチョ・ブゾーニの著書『新音楽概要』に応じて書かれた『未来主義者の危機 Futuristengefahr 』の著者である。「ブゾーニは、西洋音楽への希望を未来に託し、現在と過去はよろめきがちな始まりとして、また準備段階として理解する。しかし、もしそうでなかったとしたらどうだろう?今こそ我々は頂点を極めていることや、あるいは頂点を刻々と制しつつあるということを悟るなら?」
プフィッツナーは第一次世界大戦前後のモダニズムを徹底して嫌い、政治的にも文化的にも保守主義者を押し通そうとした。そのため、ブゾーニの新古典主義やヒンデミットの新即物主義、新ウィーン楽派の表現主義音楽や無調、シュレーカーのフランス印象主義への接近を、いずれも破壊主義として攻撃した。ワイマール共和国を糾弾しただけでなく、ユダヤ人が同国において各界の指導層に進出することを「国際主義」のレッテルのもとに非難し、ゆくゆくはプフィッツナーがヒットラーやナチスに利用される遠因となった。しかし、ナチスの御用芸術家のうち、とりわけ作曲界では、自らの名声や思想のためにヒットラーやナチスを逆利用しようとの思惑を持っていた点でも、プフィッツナーは際立っていた。
プフィッツナーは、自らの作風が分析されることを嫌って、「インスピレーションの作曲家」たらんとしたに。それでもなお、19世紀末のポスト・ワーグナーの音楽に顕著な「拡張された調性」を駆使した作曲家のひとりに位置づけることが妥当であろう。多数のオペラを作曲し、とりわけ歌劇「パレストリーナ」は、プフィッツナー自身の芸術観や世界観の表明として初演以来、重視されている。その半面、シューマンやブラームスを尊敬して、その伝統上に数々の室内楽曲や管弦楽曲、合唱曲や歌曲を書いた。しかし器楽曲、とりわけ室内楽の場合には、着想(インスピレーション)の技術に溺れるあまりに、作品をコントロールする力が見失われ、しばしば作品全体のバランスがとれないという欠点も認められる。
晩年は世間から顧みられることなく貧困にあえいでいたが、ウィーン・フィルから生活資金援助を受けた。没後、ウィーン・フィルによってベートーヴェン、シューベルトなどが眠るウィーン中央墓地の名誉墓所に葬られた。
[編集] 主な作品
歌劇「パレストリーナ」が代表作。その他の主要作品は、カンタータ「ドイツ精神について」「暗闇の帝国」、交響曲 ハ長調、ヴァイオリン協奏曲ロ短調、ピアノ協奏曲 変ホ長調、3つのチェロ協奏曲、ヴァイオリン・ソナタ、2つの弦楽四重奏曲、ピアノ五重奏曲、フィッシャー=ディースカウの愛唱したバラード「月に寄す」、歌劇「愛の花園のばら」など。
[編集] 指揮者プフィッツナー
プフィッツナーはリヒャルト・シュトラウスと同様に指揮者としても活躍し、ベルリン・フィルなどを指揮して自作やベートーヴェン、シューマンの交響曲などをドイツ・ポリドールに多数の78回転録音をしている。なかでも「田園」のSPは、宮沢賢治が生前よく聴いていたレコードの一つであり(宮沢賢治記念館に収蔵)、「賢治の田園」と呼ぶ愛好家もいる。