ナースィル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナースィル・リ・ディーニッラー(アラビア語: الناصر لدين الله أبو العبّاس بن المستضي al-Nāṣir li-Dīn Allāh Abū al-‘Abbās Aḥmad b. al-Mustaḍī 1158年~1225年)はアッバース朝の第34代カリフ(在位1180年 - 1225年)。先代のムスタディーの息子。
歴代カリフでもっとも長い治世を誇り、数世紀に渡り弱体化したカリフの権力、政治的実権と全ムスリムからの宗教的権威の双方の回復に努めた。そのため内外の諸勢力の対立を利用して周辺諸国の同盟関係に干渉し、これを操ってアッバース朝の優位性を確立するため奔走している。即位すると、まずエルサレム王国打倒のため諸国からの協力を欲していたアイユーブ朝のサラーフッディーンの要請に応じてジハード宣言を下す一方で、エジプトからシリア一帯を征服しつつあったサラーフッディーンを警戒してその動向を批判するなどして牽制している。この時期、アタベク諸政権とその庇護化にあった王族たちによる内紛が絶えなかったセルジューク朝は弱体化が激しく、また1180年代半ばにはホラーサーンからオグズ諸勢力がイラン東部に侵攻してケルマーン・セルジューク朝を滅ぼしていた。ナースィルはこの混乱を好機と見てホラズム・シャー朝のテキシュに誘い掛けて、1194年にはセルジューク朝最後の君主となるトゥグリル3世を攻め滅ぼさせた。同時に、ゴール朝のギヤースッディーンにも軍事支援の要請を取り付けることにも成功し、これにテキシュの牽制も行った。アラーウッディーン・ムハンマドとジャラールッディーンのイラン、イラク地域での攻勢に苦しい立場にさらされ、モンゴル帝国の侵攻にはほとんど対抗が出来なかったものの、ルーム・セルジューク朝や奴隷王朝、インドから帰還したジャラールッディーンにモンゴル軍への対抗を支援するなど多方面への働きかけを続けている。
アッバース朝の復興を半ば実現した一方で、ナースィルの外交政策によって周辺諸勢力を混乱させ、ホラズム・シャー朝の没落とモンゴル帝国の侵攻を容易にしたとして同時代の人々からの批判は功罪半ばしているが、この時代にあって卓越した行動力と鋭敏さで国事と外交を采配した有能な君主であったという後世からの評価を受けている。
先代 ムスタディー |
アッバース朝 | 次代 ザーヒル |
カテゴリ: 歴史関連のスタブ項目 | アッバース朝の君主 | 1158年生 | 1225年没