デ・トマソ
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デ・トマソ(DE Tomaso)は、1959年に企業名デ・トマソ・アウトモビリとしてイタリアはモデナの地に設立された。創始者はアルゼンチン出身のアレハンドロ・デ・トマソ(Alejandro de Tomaso)。彼は技術者でも、新事業を積極的に立ち上げることに野心を燃やす実業家でもなく、レーサーとして腕を鳴らした人物だった。
目次 |
[編集] 歴史
参戦年度 | 1961 - 1963 , 1970 |
---|---|
出走回数 | 10 |
コンストラクターズタイトル | 0 |
ドライバーズタイトル | 0 |
優勝回数 | 0 |
通算獲得ポイント | 0 |
表彰台(3位以内)回数 | 0 |
ポールポジション | 0 |
ファステストラップ | 0 |
F1デビュー戦 | 1961年フランスGP |
初勝利 | - |
最終勝利 | - |
最終戦 | 1970年アメリカGP |
デ・トマソ社は当初、車の生産はしておらず、起業してからの数年間を自製のフォーミュラマシンの製作にほとんどを費やしていた。しかし、それはフレームに限っての話で、エンジンや駆動系は市販のものを搭載していた。
1961年にはアルファ・ロメオを、1970年にはコスワースのエンジンをそれぞれ搭載してF1に参戦したものの、結果を残せず早々に撤退している。なお、1970年の参戦の際にはフランク・ウィリアムズ(現在のウィリアムズF1チームの創設者)がチームの運営を行っていた。
デ・トマソは1963年に3台の試作車を発表。このうちの1台であるヴァレルンガ1500は、オープンカーからアルミ製ボディを纏うクーペボディに変更されて市販され、世界初のミドシップ・ロードカーの1台として名を馳せることとなる。
その後、2台目の市販車であるマングスタは不発に終わるも、フォードのスポーツカープロジェクトに参加して生まれた、伊米の合作パンテーラが商業的にデ・トマソ史上最大の生産台数を記録する。
1970年代、オイルショックによるスポーツカー冬の時代を迎えたことで、後ろ盾であったフォードが手を引くと、デ・トマソはマセラティ社、イノチェンティ社、ベネリ社を次々と買収し、事業拡大という経営手腕によって乗り切ることを決意する。事実、マセラティからはビトゥルボという稼ぎ頭の登場で頭角を現し、イノチェンティはBLMCの生産していたMINIをベースとしてダイハツ製エンジンを搭載した小型車を生産することになった。
デ・トマソは1970年代以降、リファインを繰り返しながらパンテーラ、高級サルーンのドーヴィル、ドーヴィルの車体を短縮したGTカー、ロンシャンを売り続けていたが、1994年、ようやく新型車グアラが登場する。しかし、グアラは様々な事情から細々と生産が継続されるに留まり、FR2シーターのスポーツカー、ビグアの開発に賭けることとなるが、度重なる商標権の移動などでこじれにこじれ、ビグアはクヴェール・モデナ社の手によりマングスタと改称されて販売されるも短命に終わり、MGローバー社のクヴェール・モデナ買収によってMG XpowerSVの基礎となった。
パンテーラの生産を打ち切った1993年、創始者のアレハンドロが病に冒され入院。療養していたものの、2003年5月21日、心不全が原因で他界。2004年5月、会社はアレハンドロの遺族によって解散された。
[編集] 過去の車種
- ヴァレルンガ
- マングスタ
- パンテーラ
- ドーヴィル
- ロンシャン
- クヴェール・マングスタ
- グアラ
[編集] 関連項目
- イタリア車
- フォード・モーター
- マセラティ
- ダイハツ・シャレード
- F1コンストラクターの一覧
- チェ・ゲバラ(アレハンドロのアルゼンチン時代の知人といわれている)