ディアドコイ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ディアドコイ戦争または後継者戦争とは、古代マケドニア王アレクサンドロス3世(大王)が紀元前323年に急逝した後、その配下の将軍たちが大王の後継者(ディアドコイ)の座を巡って繰り広げた戦争のことである。
目次 |
[編集] アレクサンドロス3世死後
大王が亡くなった時に王妃ロクサネは妊娠中であり、他には庶子ヘラクレス(王位相続権は無し)がいるのみであった。そのため将軍のメレアグロスは大王の異母兄弟アリダイオスを次期国王に推したが、他方でペルディッカスはロクサネの出産を待つべきだと主張した。やがてロクサネが産んだ子は男子であったため、このアレクサンドロス4世とアリダイオス改めフィリッポス3世が共同統治者となった。そしてペルディッカスがアレクサンドロス4世の、また声望の高かったクラテロスがフィリッポス3世の後見人にそれぞれ就任し、さらに将軍らが領内各地の長官に任ぜられることとなった。この体制化でペルディッカスはマケドニア内で首位の座に就いたが、その評判は芳しくなく権力基盤も磐石とは言い難い状態にあった。
なおこの時点での主な将軍の配置は下記の通りである。
- アンティゴノス : フリュギア・パンフュリア(小アジア中西部)
- アンティパトロス : マケドニア本国
- エウメネス : カッパドキア・パフラゴニア(小アジア北東部)
- プトレマイオス : エジプト
- リュシマコス : トラキア
- レオンナトス : ヘレスポント(小アジア北西部)
[編集] ラミア戦争
一方ギリシアでは、大王の死を契機にアテネで反マケドニアを掲げる反乱が発生し、これを鎮圧すべく出動したアンティパトロスが敗北するという出来事が生じていた。敗れたアンティパトロスはテッサリア地方のラミアに篭城したが、アンティパトロスを救援するためにレオンナトスが小アジアから渡海し、包囲を解いた。ただしレオンナトスはこの戦闘中に戦死した。アンティパトロスは小アジアにいたクラテロスに救援を求め、これに応じたクラテロスは途中アテネの艦隊を撃破し、さらに紀元前322年のクランノンの戦いでアンティパトロスと共にギリシア軍を破った。この後アンティパトロスはアテネに入城し、反マケドニア派を粛清・追放した。なおこの戦役は、アンティパトロスが篭城した地名から「ラミア戦争」と呼ばれている。
[編集] 戦争前期:戦争勃発~エウメネスの死
ペルディッカスはアンティパトロスとの連携を狙いその娘との結婚を申し出たが、大王の母オリュンピアスが彼に自分の娘、すなわち大王の妹クレオパトラとの結婚を勧めた。そこでペルディッカスはまずアンティパトロスの娘と結婚し、すぐ離婚してクレオパトラと結婚することを計画した。このことを知ったアンティパトロスはクラテロスやプトレマイオスと共に、ペルディッカスと対決する姿勢を明確にした。そこでペルディッカスはまずプトレマイオスの打倒を目指し大王の家族を伴ってエジプトに遠征し、また彼の支援を受けていたエウメネスが小アジアで勢力を拡大していた。対するアンティパトロスは自身がエジプトに赴き、クラテロスを小アジアに送ってエウメネスと対戦させた。ペルディッカスはエジプト遠征の最中、彼に不満を抱いていたセレウコスらによって暗殺されたが、その二日後にクラテロスが敗死している。(紀元前321年)
後ろ盾を失い勢力を減退させたエウメネスはアンティゴノスによって包囲されていたが、紀元前319年にアンティパトロスが病没したことで事態は新たな局面に向かいだした。アンティパトロスは自分の後継者として息子のカッサンドロスではなく年長であるとの理由からポリュペルコンに譲ったが、これに不満をもつカッサンドロスがアンティゴノスらと共にポリュペルコンと相対する姿勢を見せた。劣勢に立たされたポリュペルコンはその打開のためにエウメネスを支援し、包囲を抜け出した彼はメソポタミア地方で軍団を掌握してアンティゴノスと対戦した。しかし彼は紀元前316年にアンティゴノスに敗北し処刑された。エウメネスに勝利したことでアンティゴノスは小アジアからメソポタミアにかけての地域を制圧し、名声・実力ともディアドコイの中で突出した存在になっていった。
[編集] マケドニア王家
大王の家族は、ペルディッカスの死後アンティパトロスによってマケドニア本国に戻されていた。そのアンティパトロスの死後ポリュペルコンとカッサンドロスが対立したことは前述の通りだが、紀元前317年にポリュペルコンがペロポネソス半島へと遠征した留守にフィリッポス3世の妻エウリュディケがクーデタを起こしカッサンドロスと結んだ。これに対してポリュペルコンに同行していたオリュンピアスがマケドニアに戻り、クーデタを鎮めフィリッポス3世とエウリュディケ、及びその與党を粛清した。しかしペロポネソスからカッサンドロスが戻るとオリュンピアスは孤立し、翌紀元前316年にカッサンドロスに降伏、処刑された。これによって大王の子アレクサンドロス4世はその母ロクサネと共にカサンドロスの保護下に入ることになった。
カッサンドロスはその後大王の妹テッサロニケと結婚したていたが、紀元前310年にロクサネとアレクサンドロス4世を暗殺した。いずれもマケドニア王位を狙っていたためと言われている。また零落していたポリュペルコンがアンティゴノスの支援を受けて大王の庶子ヘラクレスと共にマケドニア入りを目指していたが、カッサンドロスはポリュペルコンを説いてヘラクレスとその母を殺させた。これによって大王直系の人間が全員死亡しただけでなく、王位継承権を持つのはカッサンドロスのみという状況になった。
[編集] 戦争中期:アンティゴノスの台頭
小アジアからシリア・メソポタミア北部にかけてを支配したアンティゴノスだったが、その勢力があまりに強大であったために他のディアドコイとの対立が激化した。紀元前315年、バビロンのセレウコスがアンティゴノスを恐れてエジプトに逃れたことから事態は表面化し、アンティゴノスはギリシアに渡るための船を得るためにシリアに進攻した。これによりプトレマイオスとの戦端が開かれ、翌年にはカッサンドロスの支配するギリシアに上陸しエーゲ海の諸島とペロポネソス半島の大半を制した。一方プトレマイオスはシリアに進攻、ガザでアンティゴノスの息子デメトリオスの軍を破った。この報を受けてアンティゴノスはギリシアからシリアに移動しプトレマイオスと対峙したが、プトレマイオスの支援を受けたセレウコスがバビロンに復帰したためセレウコス以外のディアドコイらと講和しセレウコスを攻撃した。
しかしアンティゴノスはバビロン攻撃に失敗し、他方プトレマイオスはキプロス島からキリキア(小アジア南部)、さらにはギリシアへと進出した。プトレマイオスの勢力の伸張に対してアンティゴノスはデメトリオスをギリシアに送り込み、その軍は紀元前306年にサラミス海戦(キプロス沖、ペルシア戦争中のものとは場所が異なる)でプトレマイオスを破った。この敗戦でプトレマイオスはエジプトに撤退した。勝報を受けたアンティゴノスは自身をマケドニア王であると宣言し、またデメトリオスを共同統治者とした。さらにアンティゴノスはエジプトを攻撃したがこれは失敗し、プトレマイオスは翌年王位に就くことを宣言した。
その後ロードス島包囲の後デメトリオスがギリシアでカッサンドロスに対して優勢に戦いを進め、紀元前302年にはアンティゴノスを盟主とするヘラス同盟を結成した。追い詰められたカッサンドロスは講和を求めたが、無条件降伏を求められたためにプトレマイオスやトラキアのリュシマコス、さらにセレウコスらに対アンティゴノスの戦いを呼びかけた。紀元前301年、アンティゴノスとデメトリオスはフリュギアのイプソスでセレウコスとリュシマコスの連合軍と対戦したが、この戦いでアンティゴノスは戦死し、デメトリオスも敗走するなど大敗を喫した。
これによってアレクサンドロスが築いた大帝国は分割され、シリア、バビロニア、イラン高原を支配するセレウコス朝やエジプトのプトレマイオス朝が成立した。