スコッティ・ピッペン
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男子 バスケットボール | ||
金 | 1992 | バスケットボール |
金 | 1996 | バスケットボール |
スコッティ・ピッペン(Scottie Pippen, 1965年9月25日 - )は、アメリカ合衆国の元バスケットボール選手。1990年代に6度優勝したシカゴ・ブルズの中心選手だった。攻守にわたりバランスの取れたオールラウンダーであり、史上最高のスモールフォワードの一人と考えられている。身長2.01m。アーカンソー州ハンバーグ出身。
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[編集] 生い立ち、プロ入りまで
12人兄弟の末っ子として生まれ、兄たちとともに幼少期からバスケットボールをプレイした。大家族な上に、高校進学の頃に父親が急病により車椅子生活を余儀なくされるなど、生活は楽なわけではなかった。
バスケットボール選手としてのピッペンは遅咲きで、高校4年生になるまでレギュラーにはなれなかった。身長が伸びる前はガードとして練習していたため、試合中の視野やボールハンドリングの技術の基礎を身につけた。
しかし高校卒業時にはNCAA所属の大学からは勧誘を受けなかった。それでも、ピッペンの境遇を知る恩師らの努力により、NAIA(全国大学体育協会)所属のセントラル・アーカンソー大学に進学することができた。当初はチームのマネージャーとして入学したが、奨学金を受ける選手に欠員が出たためピッペンが奨学金を得ることとなった。ただし奨学金の額だけで生活するのは難しく、実家からの仕送りを期待することもできなかったので、ピッペンは椅子の組み立てなどで副収入を得ていた。
大学2年生になる頃には高校時代よりも身長も15センチほど伸び、才能が開花し始めた。奨学金も全額支給されるようになった。ピッペンは対外試合で活躍するようになったが、大学と所属リーグがマイナーだったためプロから注目されることはなかった。しかしながら、大学の監督やプロのスカウトらの働きかけもあって、ついにシカゴ・ブルズのジェネラルマネージャー、ジェリー・クラウスの目にとまるようになる。
[編集] キャリア概観
[編集] 80年代
ドラフトではシアトル・スーパーソニックスに全体で5番目に指名されるが、その後すぐにシカゴ・ブルズにオルデン・ポリニスとの交換で入団する。訛りが強く寡黙であったため、キャリア初期にはインタビューに苦労したという逸話を残している。
最初の年は、ブラッド・セラーズとチャールズ・オークリーの交代要員であったが、1988年にはスターターの地位を奪い、ホーレス・グラントと共にブルズのフォワードを務めることになる。この年、マイケル・ジョーダンに率いられたチームはイースタン・カンファレンスのプレイオフの準決勝まで進出。ピッペンは選手として成長を続け、翌年に決勝まで進出する原動力となり、初めてオールスター・チームの一員に選ばれている。
この時期のシカゴ・ブルズは毎年のプレイオフでデトロイト・ピストンズと対戦し、そして敗れていた。ピストンズは「バッドボーイズ」の異名を取る荒いチームで、試合ではラフなファウルも厭わない激しいディフェンスをしかけてきた。ある年のプレイオフでは、ピッペンはデニス・ロッドマンに観客席まで突き飛ばされ、顔を縫う負傷を負った。1990年のプレイオフ、イースタン・カンファレンスのファイナルでブルズはピストンズと対戦し、ピッペンは第7戦までもつれたシリーズの大事な場面で原因不明の偏頭痛に襲われ、チームはまたしてもNBAファイナル進出を逃した。ジョーダンを初めとする一部の人々は、ピッペンが土壇場に弱いと批判するようになった。
[編集] 最初のスリーピート
それでもピストンズを7戦目まで追い詰めたブルズの成長は明らかで、ピッペンもチームの躍進を支えた選手の一人だった。1991年にピッペンはオールディフェンシブセカンドチームに選出され、リーグ有数の好ディフェンダーであることを証明した。この年のプレイオフ、カンファレンス・ファイナルではピストンズを4勝0敗で破り、ブルズは悲願のNBAファイナル進出を果たす。ロサンゼルス・レイカーズと対戦したファイナルのシリーズで、ピッペンはマジック・ジョンソンをガードして苦しめ、ブルズの初優勝に貢献する。以後はジョーダンに続き、チームで最も優秀な選手としての地位を確立し、以後チームを6度の優勝に導く中心選手となる。
同じ1991年、ピッペンは以後チームを去るまで続く長期契約をブルズと交わした。このことが後年チームのフロントとの間に確執を生む遠因になる。
1992年、ピッペンはオールNBAセカンドチームとオールNBAディフェンシブファーストチーム入りを果たし、名実ともにリーグのトップクラスの選手と認められた。このシーズン、シカゴ・ブルズは67勝15敗というリーグ最高の成績でNBAファイナルに進出、ポートランド・トレイルブレイザーズを4勝2敗で下して2連覇を果たす。翌1992-93シーズンはフェニックス・サンズにホームコートアドバンテージを奪われたものの敵地で6戦目に勝利し、「スリーピート(3連覇)」を成し遂げた。これはNBAでも1960年代以来となる歴史的な快挙だった。
[編集] ジョーダン引退期
マイケル・ジョーダンというNBA史上最優秀といえる選手が同じチームにいたこともあり、ピッペンは過小評価される向きがあった。1993年にジョーダンが引退した時、翌シーズンのブルズはかなり勢力を落とすだろうという予想がよく聞かれた。しかし、翌1993-94シーズンには、前シーズンより2勝少ないのみの55勝を挙げる原動力になり、ピッペンはチームリーダーであることを証明した。また個人成績でもシーズン平均22.0得点、8.7リバウンド、5.6アシストという全キャリアを通じても最高水準の結果を残しており、オールスター戦ではMVPに選ばれた。
このシーズンのプレイオフ、ニューヨーク・ニックスに敗れたカンファレンス・セミファイナル第3戦で、ピッペンはチームメートやファンにとって忘れられない事件を起こしている。試合時間残り1.8秒、最後の逆転を狙う場面で、監督のフィル・ジャクソンはトニー・クーコッチにシュートを打たせるプレイを指示した。納得できなかったピッペンは出場を拒否した。クーコッチはシュートを決めてブルズは逆転に成功したものの、ピッペンの行動はチーム内で議論を起こし、ファンやマスコミには批判された。このニックスとのシリーズではブルズは20点差以上リードした試合でもタフなディフェンスに苦しめられたか逆転負けを喫することがあった。
翌1994-95シーズン、ピッペンは前シーズンとほとんど変わらないオールラウンドな数字を残す。またこのシーズンも引き続きオールNBAファーストチーム、オールNBAディフェンシブファーストチーム入りし、リーグの第一人者であることを示す。シカゴ・ブルズの成績は47勝35敗と前のシーズンより落ちてしまうが、このシーズンの末にはマイケル・ジョーダンの復帰という大きな出来事があった。復帰したジョーダンは「このチームのリーダーはピッペン」と語ったが、ピッペンが2シーズンに及んだチームリーダーの重責から部分的にも解放されたのは事実であった。このシーズンのブルズは、プレイオフのカンファレンス・セミファイナルでオーランド・マジックに2勝4敗で敗れている。
ジョーダン不在の2年間は、1994年のプレイオフでの出場拒否事件もあったものの、ピッペンにとってはチームを率いる立場で実力を示した時期でもあり、リーグを代表する選手として認められた時期でもあった。
[編集] 後期スリーピート
失意のうちに終わった前シーズンのあと、1995-96シーズンのシカゴ・ブルズは歴史に残る躍進を遂げることになる。
復帰当初は精彩を欠いたジョーダンは、このシーズン再びリーグ最高の選手として活躍を開始した。このシーズンから加わったデニス・ロッドマンは、物議を醸しながらも実力は確かで、ディフェンスやリバウンド面でチームに確実に貢献していた。ピッペンは相変わらずオールラウンドな選手だった。ジョーダン、ロッドマン、ピッペンの3人はリーグでも最高のトリオと見なされるようになり、シカゴ・ブルズはリーグを席捲した。72勝10敗というNBA歴代最高の勝ち数でプレイオフに進んだブルズは、ファイナルでシアトル・スーパーソニックスと対戦、4勝2敗で4度目の優勝を飾った。
翌1996-97シーズンもブルズは好調で、69勝13敗でレギュラーシーズンを終える。プレイオフでは再びNBAファイナルまで進み、ユタ・ジャズを4勝2敗で下し、5度目の優勝を果たす。
チームは歴史的にも最高のレベルの強豪になっていたが、この時期よりピッペンとチームフロントとの確執が公に語られるようになる。
1990年代はNBA選手の年俸が高騰した時期だった。スター級の選手が数百万ドルから数千万ドルの年俸を得るようになると、ピッペンが1991年に結んだ契約が時代遅れに見えるようになった。個人成績で見ても、受賞歴やチームへの貢献度から言っても、ピッペンはリーグでもトップクラスの選手だったが、年俸はリーグで100位以下の水準だっただけでなく、チームでも控え選手だったトニー・クーコッチより低かった。
加えて、チームのジェネラルマネージャージェリー・クラウス個人との確執が事態をさらに悪化させた。クラウスは年俸に関しては常に渋く、交渉の場ではしばしば選手を傷つける発言をした。またクラウスは好んでチームの遠征に同行し、それが選手との関係をさらに複雑にした。ある遠征の時、ピッペンは選手たちのいる前で公然とクラウスを罵ったことがあり、それがマスコミに報じられる事態も起きた。ピッペンはこのシーズンの最中、公にトレードを要求したこともあった。
翌1997-98シーズンは、フィル・ジャクソン監督の引退の可能性が語られ、またピッペンの去就もしばしば話題になった。ジョーダンは「ジャクソンとピッペンが残れば自分も残る」と語り、強豪ブルズ最後のシーズンになるかどうかがファンやマスコミの関心事だった。このシーズンはブルズ2度目の「スリーピート」つまり6回目の優勝がかかっていた。
プレイオフでブルズは苦しみながらもNBAファイナルに進出し、再びユタ・ジャズと対戦。ホームコートアドバンテージのないシリーズで、ブルズは敵地でジャズを下し、8年間で6回の優勝という結果を残した。
シーズン後、ジャクソンとジョーダンは引退、ピッペンはトレードにより11年間過ごしたチームを去った。
[編集] ブルズ以後
1998年にピッペンはヒューストン・ロケッツにトレードされた。アキーム・オラジュワンとチャールズ・バークレーと共にNBA史上有数のトリオになり、優勝候補であったが、チームは安定感を欠き、プレイオフでは1回戦でシャキール・オニールとコービー・ブライアントのロサンゼルス・レイカーズに敗退した。シーズン終盤にはバークレーとの関係も悪化し、互いを批判するようになった。ピッペンはこのチームで自分が思っていた役割が与えられなかったことに不満を述べていた。
翌年、ピッペンはポートランド・トレイルブレイザーズに移籍した。層の厚いチームで出場時間は減り、従って個人成績も下がったが、ピッペンはチームのキーマンとして活躍。ブレイザーズは59勝23敗の好成績でプレイオフに進出した。カンファレンス・ファイナルでロサンゼルス・レイカーズと対戦し、格上だったレイカーズを第7戦まで追い詰めたが、大量のリードを奪っていたこの試合の第4クオーターでレイカーズの猛追を許し、3勝4敗で破れている。このシリーズはハック・ア・シャックが最も使われたシリーズの1つとしても知られている。
翌2000-01シーズンのブレイザーズは50勝、その次のシーズンは49勝という結果で、ピッペンの個人成績は徐々に低下していた。プレイオフではこの2シーズンともレイカーズに1回戦で3連敗し、優勝には遠く及ばない状態だった。2002-03シーズンのプレイオフでは1回戦でダラス・マーベリックス相手に3勝4敗と健闘したもののここでシーズンを終えた。
2003年にかつてのチームメートであったジョン・パクソンがゼネラル・マネジャーになったのを期に、シカゴ・ブルズに復帰した。しかし、怪我のため、翌シーズン開始前の2004年10月5日に引退を表明した。
[編集] プレイスタイルと業績
ピッペンは運動能力が高く、また得点能力やアシスト、リバウンド、スティールに秀いで、1対1のディフェンスもチームディフェンスもトップクラスという万能型のフォワードだった。オールラウンドさとチームプレイではジョーダン以上という評価もよく聞かれる。「ピッペンがいれば自分はもっとうまくプレイできる」と語るチームメートもいたように、味方の能力をさらに引き出せるチームプレイヤーだった。「後期スリーピートはスコッティがいなければ絶対に達成されなかった」とジョーダンも最大級の評価をしている。
1992年にはオールNBAファーストチームに選出され、名実ともにリーグを代表するフォワードとなった。またディフェンスに関してはリーグきっての名手と目されるようになり、1992年から1999年まで連続でオールNBAディフェンシブファーストチームに選ばれている。1996年には50周年を迎えた「NBAが選んだ50人の最優秀選手」の一人にも選出された。
1992年のバルセロナオリンピックにドリームチームの一員に選ばれ、金メダルを獲得している。また、アトランタオリンピックのドリームチームにも選ばれており、二つ目の金メダルを獲得している。
ピッペンは入団以来16シーズン連続でプレイオフに進出しており、カリーム・アブドゥル=ジャバーを除き、最も多くのプレイオフの試合に出た選手であったが、2006年、ロケッツ、レイカーズ、スパーズで活躍したロバート・オーリーに抜かれて歴代3位となった。
日本との関係では、マツダ・デミオのCMに出演したことがある。 bjリーグ・東京アパッチのウィリアム・ピッペンは甥に当たる。