ジャクリーヌ・デュ・プレ
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ジャクリーヌ・デュ・プレ(Jacqueline Du Pre,1945年1月26日-1987年10月19日)は、イギリスのチェロ奏者。夭折の天才チェリストとして名高い。
教育熱心な家庭の次女として生まれたデュ・プレは4歳の時にラジオでチェロの音楽を聞いたことをきっかけにしてチェロの演奏を志す。最初、デュ・プレは母親のアイリス・デュ・プレからチェロの演奏を習う。6歳からはロンドン・チェロ・スクールで姉のヒラリー・デュ・プレといっしょに正式に音楽演奏家としての道に踏み出す。デュ・プレの天賦の才能はその後、直ぐに開花し10歳のときには既に国際的演奏コンテストで賞をとる。12歳でBBC主催のコンサートで演奏を行っている。ロンドン・チェロ・スクールの次に入学したギルドホール音楽学校ではウィリアム・プリースに師事。ウィリアム・プリースに関しては「チェロのパパ」と呼んで慕った。
デュ・プレの最初のデビューは1961年のロンドンで行われた。同年には歴史的名盤との評価の高いエルガーのチェロ協奏曲を録音し、16歳にして早くもチェロ演奏家として国際的な名声を得る。
デュ・プレはこの演奏を行う際に彼女の名付け親で支援者となるイスメナ・ホーランドからダヴィドフ・ストラディヴァリウス(ダヴィドフは当時も今も最高の弦楽器の一つ。ホーランドはダヴィドフを楽器商から約10万ドルで購入している)を贈られる。デュ・プレはその後、生涯を通してダヴィドフを用いて演奏を行い、彼女の死後はヨーヨー・マに寄贈された(ヨーヨー・マは主にバロック音楽の演奏にダヴィドフを用いている)。
16歳の衝撃的なデビュー以降、デュ・プレはイギリスの国民的な音楽祭「プロムス」にもエルガーのチェロ協奏曲の独奏者として常連のように出演。エルガーはイギリスでは非常に人気のある作曲家ということや、まだ少女の面影を残すデュ・プレが悲壮的なエルガーのチェロ協奏曲を弾いたことなどがきっかけとなりデュ・プレはイギリスの国内で大衆的な人気を集める。
その後、チェロ演奏家として不動の地位を確立したデュ・プレは1966年に21歳でピアノ演奏家で指揮者でもあるダニエル・バレンボイムと結婚する。夫となったダニエル・バレンボイムとは数々の名演を残している。
デュ・プレは1973年に指先の感覚が失われてきたことに気づくと同時に演奏が行えない身体状態に陥る。この病状は以前から続いてきたものとなるが、この時点になり多発性脳脊髄硬化症(MS)との診断が下りチェロ演奏家として引退を余儀なくされる。デュ・プレの病状はその後、徐々に身体を蝕み、1987年に42歳で死去した。1973年に事実上の引退をして以降の数年間はチェロの教師として後輩の育成を行っていた。1975年にはエリザベス女王からOBE勲章を授与されている。
約12年間の活動期間中に残された録音の多くは、現在も名盤とされる。集中度の高い情熱的な演奏が特徴。デビュー前の当初からその演奏スタイルは情熱的過ぎるといった批判が寄せられることも多いが、悲壮的な雰囲気の強いエルガーのチェロ協奏曲や、ショパン最後の楽曲となったチェロ協奏曲など、情緒的な色彩の強い楽曲の演奏に関しては卓越した天才を発揮した。全盛期の録音は60年代の物が多く現在のデジタル技術を用いたものと比べると録音状態の悪さは否めないが、その悲劇的な後半生とも相まって今でも多くのファンを集めている。
代表的な演奏として、ハイドン、ドヴォルザーク、エルガー、ディーリアスらのチェロ協奏曲、夫ダニエル・バレンボイムと共演したブラームスのチェロ・ソナタがある。
[編集] 略歴
- 1945年、オックスフォードで生まれる。フランス風の姓は先祖がジャージー島出身であることに由来する。4歳からチェロを始め、ロンドンのチェロ学校からギルドホール音楽学校に入学し、ウィリアム・プリースに師事。
- 1960年、同校のエリザベス女王特別賞を受賞。
- 1961年、16歳でロンドンでデビュー。
- 1965年、BBC交響楽団とのアメリカ演奏旅行でエルガーのチェロ協奏曲を弾き、「カザルスに匹敵する」と絶賛を浴びる。この間、ポール・トルトゥリエ、パブロ・カザルス、ムスティスラフ・ロストロポーヴィチらの巨匠に師事。
- 1967年、当時の若手演奏家たちとの交流の中で、22歳でピアニスト・指揮者のダニエル・バレンボイムと結婚。
- 1971年に多発性脳脊髄硬化症(MS)という難病を発症。
- 1973年、4月に来日したものの、病気の進行により演奏会はすべてキャンセルされ、そのまま演奏活動から引退を余儀なくされた。28歳。
- 1978年、プロコフィエフ作『ピーターと狼』の演奏会にナレーション参加。
- 1987年、多発性脳脊髄硬化症のため42歳で死去。