ギリシア建築
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ギリシア建築(Greek Architecture)は、古代ギリシア人によって確立された建築様式。特に神殿建築は最も完成度が高く、以後2500年もの間、古典主義建築の直接的、間接的規範とされ続けたが、決してその完成度を超える建築は創造されなかった。
ギリシア建築はアルカイック期に積石構造を採用することで形成され、古典期にその絶頂を迎えるが、空間の展開よりも細部装飾や比例原理を洗練させて自己完結していく傾向にあり、現代の美術的な感覚からすれば建築よりもむしろ彫刻に近いものとなった。ヘレニズム時代には建築の形態が再編成され、建築相互間の関係性が意識されるようになり、やがてローマ建築に継承されて古典的な構成要素をもたらした。
古典主義建築の源泉でありながら、ヨーロッパでは18世紀に至るまで忘れ去られていたが、新古典主義運動において建築の起原的形態であることが確認され、ギリシア建築の復興運動(グリーク・リヴァイヴァル)を巻き起こした。19世紀に建築の起原論は解体されてしまったが、その余韻は現代にも続いており、ギリシア建築は古代遺物の象徴となっている。
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[編集] 概説
歴史的、地理的関係性を考慮すると、古代ギリシアの建築活動は紀元前2000年頃のミノア文明中期に遡り、ギリシア本土では紀元前1400年頃のミケーネ文明に出発点を置くことができる。しかし、建築形態では、ギリシア建築と呼べる建築は紀元前8世紀頃に創造されたと考えるのが妥当である。
ギリシア建築は 紀元前7世紀頃から形成されるが、当時の建築材料は木材であり、今日それを完全に復元することはむずかしい。しかし、都市国家の社会制度が発達するにつれて宗教的、公的建築が発達することが伺え、紀元前6世紀中期には建築材料として本格的に石がもちいられるようになった。また、ペロポネソス半島と南イタリアではドリス式が発展し、一方で小アジアではイオニア式建築がそれぞれ発達する。
紀元前5世紀中期になると、石造技術は高度に運用されるようになり、ドリス式、イオニア式の伝統が融合して、ギリシア建築は完成の域に達した。プルタルコスが、パルテノン神殿を「その見事さにおいては当時でさえ古めかしかった。しかし、同時にその新鮮な活力において、今日でさえ真新しく建設されたばかりの如くである」と述べているように、古典期のギリシアは完璧な比例法則を備えた壮麗な建築を創建することになった。ホール、劇場などの公共建築も形成されたが、一方で個人邸宅などの私的建築物については、ほとんど進展はみられなかった
。 ヘレニズム期になると職人技術が低下し、ギリシア建築から独創性や力強さは失われてしまうが、建築物の組み合わせや彫刻との融合といった新しい活動が見られるようになる。こうした建築的特質は、その文化と領土とともにローマ帝国に組み込まれ、紀元前1世紀以降はローマ建築に受け継がれていった。
[編集] 歴史
[編集] 黎明期のギリシア建築
紀元前7世紀から紀元前8世紀のギリシアは、都市国家が形成されはじめた頃であり、中央集権化や身分制度も発達していなかったが、同時に身分の垣根も低く、活気に富んだ公流が盛んであったと考えられている。建築についても、ほとんど暗中模索の状況ではあったが、古典期に引き継がれる建築的な下地は形成されていた。構造についても、それまで木造であったものが、紀元前6世紀頃には壁体として石灰石や大理石が用いられるようになった。
ギリシア建築の伝統は、主にペロポネソス半島と南イタリアを発祥とするドリス式と、小アジア一帯を発祥するイオニア式に分けることができる。このうち、小アジア一帯のイオニア式建築に大きな影響を及ぼしたと考えられるのが、建築家ロイコスとテオドロス、そしてケルシフロンとその息子メタゲネスである。
ロイコスとテオドロスはサモス島のヘラ神殿を建設したことで知られ、ケルシフロンとその息子メタゲネスはテオドロスとともにエフェソスのアルテミス神殿を建設した。ヘラ神殿は長辺104m・短辺52mにも及ぶ巨大建築で、104本もの円柱によって2重に囲まれていた。アルテミス神殿はヘラ神殿よりもひとまわり大きいが、平面構成はほとんど同じである。ただし、アルテミス神殿にはリディア王クロイソスの奉納した装飾付きの円柱が使用された。
これらの建築物は現在には遺っておらず、彼らの偉業もウィトルウィウスやプリニウスが触れている程度で、発掘によってある程度の情報が得られているだけだが、両神殿は、その後数百年の間、小アジア一帯の神殿建築の規範となった。
小アジアにおける建築活動とは別に、ペロポネソス半島やイタリア南部ではドリス式の神殿形態が発達した。古くからあるドリス人入植地に由来すると思われるドリス式は、ギリシア建築が石造になる以前、紀元前7世紀頃には確立されたが、ギリシア本土では、傑作に値する建築はなかなか造られなかった。
一方、イタリア南部では、この時代のすばらしい神殿が遺っている。建築家クレオメネスとエピクレスによるオルティージャ島のアポロン神殿は、構造が石造にかわったかなり早い時期の神殿建築で、紀元前570年頃に建設されたものである。技術的には未成熟な部分が多いが、ドリス式にふさわしい、どっしりとした重さは、シチリア島やイタリア半島南部の神殿建築に特有のものとなった。これより少し後の時代に建設されたセリヌスの神殿群は、すでにドリス式神殿として完成の域に達しており、特にG神殿は、洗練されていると同時に各部の構成に縛られない自由さも兼ね備えたすばらしい建築となっている。パエストゥムでもドリス式神殿が建設されたが、これも状況はセリヌスと似通っており、ギリシア本土の伝統に拘束されず、かなり独自の建築活動を行っていたようである。
[編集] 古典期
イオニア式は、小アジアと交流の深かったアテナイ(アッティカ地方と言ってもよい)に影響を与え、紀元前450年頃には、アッティカで最初のイオニア式であるデメテル・コーレ神殿(現在は消失)が建設された。イオニア式は建築を華美なものにするというイオニア人特有の美意識の現れであったが、アテナイにおいてもこれは受け入れられたようである。ペルシャ戦争以後、アテナイのアクロポリス神域の再建においても、建築家カリクラテスはアテナ・ニケ神殿をイオニア式神殿として設計した。同時期に建設されたエレクテイオンもイオニア式であるが、宗教行事の機能上、それまでの神殿よりも複雑な平面を持っていた。こうした平面に追従することができたのも、イオニア式特有の調和性と自由さ故のことである。
一方、ギリシア本土のドリス式も、紀元前5世紀においてようやく完成される。その代表的な神殿は、アイギナ島のアファイア神殿と建築家リボンとペイディアスによるオリンピアのゼウス神殿である。アファイア神殿は、地元の石灰石を構造体としてその上に白い漆喰を塗ったもので、平面上、イタリア南部のドリス式神殿のような自由さはない。ゼウス神殿は紀元前470年から紀元前460年の建設で、建物自体が厳格なモジュールによって構成されているが、設計にこのようなモジュールを規定するのは、おそらくこの神殿が契機となっている。このため、ペイディアスによるゼウスの黄金象牙像は、建物内部に、かなり窮屈に収められた。
建築家ペイディアスとイクティノスによるアテナイのパルテノン神殿は、ドリス式神殿の傑作であるとともに、イオニア式を混淆したという点でも特筆に値する。パルテノン神殿の外周部の柱は、厳格な伝統的規範を墨守して配置されたが、内部はイオニア式で格式の高い内部空間が形成された。安置されるアテネ神像の大きさに応じて設計変更されたため、ゼウス神殿のように内部が窮屈な印象を受けることはなかったようである。
アテナイのへファイストス神殿、スニオン岬のポセイドン神殿、ラムヌスのネメシス神殿は、明らかにパルテノン神殿を規範とした建築である。しかし、パルテノンのように、ドリス式の比例と内陣の比例を秩序立てて構成することは非常に困難だったため、外部の列柱と内部の柱との相互関係は破条した。バッサイのアポロン神殿や建築家スパコスによるテゲアのアテナ・アレア神殿では、もはや外部と内陣との間にはなんらの連携もない。
パルテノン神殿の成功は、ギリシア本土におけるイオニア式の使用に拍車をかけ、特にドリス式とイオニア式の混淆という成果は、後の神殿建築の原則となった。そして、アルカイック期から古典期までの建築的発展は、デルフィのアテナ神域にあるエピダウロスの円形神殿でその到達点を迎えた。紀元前330年頃に建設されたこの建物は、外部はドリス式の柱によって囲まれ、内陣はコリント式オーダーによって装飾された。ほとんど何らの機能も持たないこの神殿は、建築の装飾こそが目的であったと思わせる。そして、後のヘレニズム期では、まさにその装飾という要素こそが、建築の主要命題となっていくのである。
[編集] ヘレニズム期
ヘレニズム期になると、モジュールと比例関係との整合性の悪さ、そして装飾への嗜好からドリス式が放逐され、代わってイオニア式とコリント式が用いられるようになった。また、アテナイのリシクラテス記念碑のように、壁と一体となった円柱が正面を構成するようになり、オーダーは構造的要素ではなく、単なる装飾として扱われることになった。これはギリシア建築における新しい要素であり、装飾的要素はますます重要視されるようになった。
数学的な比例関係に基づく建築美学については、建築家ヘルモゲネスのよるところが大きく、彼の理論は、古代ローマの建築家ウィトルウィウスにも多大な影響を与えた。
建築と彫刻を融合する動きは、紀元前4世紀初期のクサントスのネレイド記念堂(現在は消失)、ハリカルナッソスのマウソロス王の霊廟(現在は消失)に始まる。宗教建築の彫刻による装飾方法は、エジプト、メソポタミアなど、明らかに東洋起原になるもので、豪華さと格式の高さを補強するものであった。ペルガモンのゼウス大祭壇は、その最も成功した例である。 サルディスのアテネ・キュベレイ神殿、ディディマのアポロン神殿は、ヘレニズム期を代表するイオニア式神殿である。エフェソスのパエオニウスとミレトスのダフニスの手によるアポロン神殿は、特に壮大な二重周柱式神殿で、内陣の入り口には1.5mの高さの敷居が設けられ、みだりに人が立ち入ることを拒んだ。内陣は天井のない中庭になっており、神像を納めるための小神殿が建設された。このような空間の入れ子構造、そしてその多彩な装飾によって、この神殿はヘレニズム時代、ローマ属州時代を通じて多大な影響を及ぼした。
アルカイック期から古典期にかけての建築は、個別の機能を満足した独立性の強いものであったが、ヘレニズム期になるとこれらの建築は統合され、組織化された。ロードス島にあるリンドスのアクロポリスには、複数のテラスが個々の建築を統一的に見せる景観をつくりだしている。ペルガモンのアクロポリスは、より複雑なもので、不規則な地形に様々な建築が建てられているが、それらはテラスによって接続され、景観を統一する要素として、扇形の神域の中央部に劇場が配置された。
[編集] 特徴
[編集] 建築比例
ギリシア建築の特徴の一つは、柱の直径、高さ、柱間、そして神殿の高さ、幅、長さの間に、秩序だった比例関係が用いられていることである。
厳格なモジュールの規定は、オリンピアのゼウス神殿から用いられるようになったようである。この神殿では柱間を1として、内陣は3:9、トライグリフとメトープの組み合わせが1/2、屋根瓦が1/8などのモジュールが規定されている。アテナイのパルテノン神殿では、されにモジュールと厳格な比例関係が決定されており、その比例関係は、(視覚的調整により中央部が微妙に膨らんではいるが)円柱の下部直径1.88mに対して標準的柱間4.25m、比率は4:9であり、基部スタイロベート の幅:長さ、内陣の幅:長さ、そして建物自体の幅:コーニスまでの高さも、全く同じ比率になっている。
このような比例関係はイオニア式オーダーについても全く同様に用いられたが、伝統的なドリス式オーダーは、このモジュールと比例の関係に重大な問題が持ち上がった。それは、トライグリフをフリーズの端に配置し、トライグリフとメトープを等間隔に配置するため、これに対応して両端部の柱間を短縮するなどの調整が必要とされたことである。これに細部のモジュールの関係性を対応させなければならなかったので、その調整は綿密な計算を必要とした。
ヘレニズム期の建築は、各部の比例関係が重視されるようになったので、このような煩雑さによってドリス式オーダーは敬遠され、例えば、マグネシアのアルテミス神殿を設計した建築家ヘルモゲネスは数学的比例に基づいた美を重視し、ドリス式よりもイオニア式オーダーの方を好んだ。事実、ヘレニズム建築では、ドリス式オーダーは美学的欠陥があるものとされ、殆ど用いられることがなくなったのである。
[編集] 公共建築
公共空間は、ポリスの政治形態が成立する紀元前6世紀頃から建設され始めた。都市中心部に、公共広場であるアゴラが置かれ、行政とヘスティアを祭る祭司空間となるプリタネイオン(評議会)、ブウレウテリオン(百人会会議場)、テレステリオン(ホール)が設けられた。ブウレウテリオンは、神殿の内陣の規範となった矩形建築物で、その構成はローマの元老院、そして現代イギリスの下院議会に通じるものである。テレステリオンは、入信の儀式などに用いられたやはり矩形の大ホールで、建築家イクティノスによって、はじめて無柱空間として設計された。そのもっとも完成度の高い遺構はプリエネに遺るエクレシアステリオンである。これらは、ポリスの政治的、社会的体制が構築されていくに従って形成され、各ポリスの組織体系を象徴するものとなった。
ギリシアでもう一つ目を惹く公共建築は[[劇場]である。初期の劇場は、単に平たい場所が用意されただけのものだったが、紀元前4世紀頃から、自然の傾斜地を利用した半円形の客席が円形のオーケストラを取り囲む形式になった。ドドナ、エピダウロス、セゲスタの劇場は、今日でもその姿を停めている。
[編集] 都市計画
古代ギリシアの建築家が、都市景観と建築との関係を意識しはじめたのは、神殿が格式高い様式で作られるようになったのと同時期であろうが、漠然とした考えが、都市の多彩な建築物や神殿の特別な空間をいかに形成するかという具体的な思案に変化したのは古典時代である。アゴラやギムナシオンはこれに重要な役割を果たしたが、これを軸線や対称性によって秩序立てていくという方法は、ヘレニズム時代に確立された。
古代ギリシアにおいて考案された新しい都市計画は、ペルシャ戦争によって破壊された都市の再建という同じ条件をもったアテナイとミレトスを参考にできる。アテナイは、それまでの古い街区を忠実に再現したが、アテナイの外港として新しく建設されたペイライエウスと、イオニアの反乱によって破壊されたミレトスでは、全く新しい都市計画が適用された。
建築家ヒッポダモスによるイオニアの街区は道路によって格子状に区画され、ストアの主軸よって、宗教、行政、商業の領域が分割された。古典期に起案されたこの都市計画は徐々に執行され、他のギリシア植民都市が各時代の経済的、社会的要因によって本来の街区計画から逸脱していったのに対し、ミレトスではヘレニズム時代末期に完成されるまで、この都市計画が固辞された。
[編集] 主要建築物
[編集] アルカイック期
- 紀元前600年頃 ヘラ神殿(オリンピア)
- 紀元前570年から紀元前560年頃 アポロン神殿(オルティージャ島)
- 紀元前550年から紀元前540年頃 セリヌスC神殿(シチリア島)
- 紀元前550年から紀元前525年頃 アポロン神域のシフノス人宝庫・アテナ神域のマッシリア人宝庫(デルフィ)
- 紀元前525年頃 デメテル神域のテレステリオン(エレシウス)
- 紀元前530年頃 ヘラ第一神殿(パエストゥム)
[編集] 古典期
- 紀元前5世紀初期 アファイア神殿(アイギナ島)
- 紀元前470年から紀元前460年頃 ゼウス神殿(オリンピア)
- 紀元前5世紀中期 ヘラ第二神殿(パエストゥム)
- 紀元前5世紀中期 アポロン神殿(バッサイ)
- 紀元前447年起工 パルテノン神殿(アテナイ)
- 紀元前427年から紀元前426年頃 アテナ・ニケ神殿(アテナイ)
- 紀元前330年から紀元前300年頃 円形神殿(エピダウロス)
- 紀元前4世紀後期 エクレシアステリオン(プリエネ)
[編集] ヘレニズム期
- 紀元前3世紀初期 アルテミス・キュベレイ神殿(サルディス)
- 紀元前3世紀初期 リンドスのアクロポリス神域(ロードス島):世界遺産
- 紀元前3世紀後期 アクロポリス神域(ペルガモン)
- 紀元前300年頃 アポロン神殿(ディディマ)
[編集] 参考文献
- ロラン・マルタン著・伊藤重剛訳『図説世界建築史 ギリシア建築』
- ニコラス・ペヴスナー著・鈴木博之訳『世界建築辞典』