ギェオールギイ・ビェリーイェフ
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ギェオールギイ・ミハーイロヴィチ・ビェリーイェフ(ゲオールギイ・ミハーイロヴィチ・ベリーエフ、ゲオルキー・ミハイロヴィチ・ベリエフ;ロシア語:Георгий Михайлович Бериевギオールギイ・ミハーイロヴィチ・ビリーイェフ、1903年2月13日 - 1979年7月14日)は、ソ連の航空機設計者。1931年に工学博士となり、また技術部門の陸軍少将でもあった。また、1929年から共産党の党員となった。
ビェリーイェフは、1903年1月31日(新暦1903年2月13日)に当時のロシア帝国領であったグルジアの首都チフリス(現トビリシ)で生を受けた。彼は元々はベリアシュヴィリ(Бериашвили)というグルジア人の姓を持っていたが、のちにロシア人風のビェリーイェフに改名した。
1930年にカリーニン記念レニングラート工学大学を卒業後、彼は1934年から1968年までソ連の試験設計局を率いた。そこにおいて彼は、水上機(MBR-2、MP-1、MDR-5、MBR-7、Be-6)、ジェット飛行艇(R-1、R-2、B-10、A-40)、水陸両用機(Be-8、B-12)、艦載射出用航空機(Be-2、Be-4)、陸上旅客機(Be-30)を設計した。彼の創設したビェリーイェフ設計局(ОКБ им. Г.М.Бериева)は世界を代表する飛行艇メーカーとなり、これらの功績から彼は二度のレーニン勲章の他、いくつかの勲章とメダルを授与されている。
なお、彼の姓を冠した設計局は日本語では「ベリエフ」と表記されることも多い。
[編集] 出典
- Большая Советская Энциклопедия (В 30 томах) Гл. ред. А.М.Прохоров. 3-е изд. М., <<Советская Энциклопедия>>, 1970. から В.Шавровによる記述に対し補足・調整