キャスパー・ワインバーガー
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キャスパー・ウィラード・ワインバーガー(Caspar "Cap" Willard Weinberger、1917年8月18日~2006年3月28日)は、アメリカ合衆国の政治家。ニクソン政権で行政管理予算局長、厚生・教育・福祉長官。レーガン政権で第15代国防長官(在任期間、1981年1月21日から1987年11月23日)を務めた。国防長官経験者としては、8年の在任期間はアメリカ史上最長であり、この間、レーガン大統領の下、冷戦期のアメリカ国防政策、戦略を指導した。戦略防衛構想(SDI)の推進や、イラン・コントラ疑惑では訴追された。国防長官辞任後は、雑誌フォーブスの発行人も務めた。あだ名は「キャップ Cap」。2003年のイラク戦争開戦前にフセイン政権の転覆を唱えるなど、引退後も強硬派ぶりを発揮していた。一方で、1987年12月にワシントンで署名される予定であった中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)に反対の立場を取っているとされることについて自身も特に否定しているが、国防長官就任当初に、最初に同条約の骨子を主張したのはワインバーガーである。
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[編集] 生い立ち
1917年8月18日カリフォルニア州サンフランシスコにヘルマン・ワインバーガー、セリーズ・カーペンター・ハンプソン夫妻を両親として生まれる。父ヘルマン・ワインバーガーは、コロラド州出身の弁護士だった。両親はイギリス(イングランド)から移住してきた。父方の曾祖父ナタン・ワインバーガー(ヴァインベルガー)はボヘミア出身のユダヤ人であり、母方は監督派教会の信者であった。1938年ハーバード大学法学部を卒業し、マグナ・クム・ラウデの学位を得る。1941年同大学院を修了し、法学博士号を取得する。同年アメリカ軍に兵卒として入隊し、第41歩兵師団に所属、太平洋地域に派遣される。終戦直前には、陸軍大尉に昇進し、ダグラス・マッカーサー麾下、情報担当の参謀を務めた。このような経歴を経て、ワインバーガーは早い時期から政治と歴史に対して関心を抱くようになり、特にウィンストン・チャーチルから大きな影響を受け、チャーチルに対して特別な賛辞を贈るようになり、後には、しばしば彼の言葉を引用するようにまでなった。
[編集] 弁護士として
戦後、軍を除隊したワインバーガーは、1945年連邦裁判所で判事補となる。その後1947年サンフランシスコ法律事務所に移り、弁護士活動に入った。
[編集] 政治家
[編集] 共和党政治家として
1952年カリフォルニア州議会議員選挙に立候補し当選、3期務める。1958年兼ねて希望していたカリフォルニア州司法長官に就任することには成功しなかったが、カリフォルニアでの政治活動を継続し、1962年共和党カリフォルニア州委員長に就任する。
1966年ロナルド・レーガンが共和党からカリフォルニア州知事に当選すると、1967年ワインバーガーは、州行政管理・経済委員会委員長に、翌1968年州財務長官に任命される。1970年ワインバーガーは、連邦政府に移り、連邦貿易委員会委員長に就任する。1970年ニクソン政権で行政管理予算局副長官。1972年同長官を経て、1973年厚生・教育・保健長官に任命される。ニクソン辞任後は、カリフォルニア州に戻り、地元企業のベチテル社の副社長などを務めた。
[編集] 国防長官
1981年レーガン政権が誕生するとワインバーガーは、国防長官に就任する。ワインバーガーは、軍務についた以外は国防、安全保障分野に関する経験は皆無に等しかったが、ワシントンでは、有能な実務家として知られていた。行政費用を大幅に削減した際には、辣腕家ぶりから「キャップ・ザ・ナイフ"Cap the Knife"」の異名を奉られていた。ワインバーガーはレーガン大統領とともにアメリカに対してソビエト連邦が重大な脅威を生み出していると強く確信し、共に対ソ強硬論を主張した。そして軍備増強と軍の近代化の推進を主導していく。キャップ・ザ・ナイフの異名が偽りかのごとく、国防長官に就任したワインバーガーは、レーガノミックスによる他の省庁が予算を削減されていく中、レーガンのアメリカ軍増強に歩調を合わせる形で国防予算を膨張させていった。国防総省の内部では、迅速、維持能力および近代化が合言葉となっていった。国防長官初期の数年は、ワインバーガーは、巨額の国防予算を軍に注ぐ「キャップ・ザ・レードル」("Cap the Ladle"、ひしゃくのキャップ)として知れ渡った。
国防長官として、ワインバーガーは、アメリカ軍の大規模な再建を督励した。ワインバーガーは、アメリカの核兵器保有量の一層の増加を後押しした。さらに一般に「スターウォーズ計画」の名で知られた戦略防衛構想(SDI)を強硬に主張した。レーガンとワインバーガーが実行したアメリカの大軍拡は、巨大な経済的、軍事的圧力となって「悪の帝国」ソ連に向けられた。ソ連はアメリカに対抗する軍拡を実行するにはあまりにも社会主義システムが停滞し、ゴルバチョフによるペレストロイカの開始を迎える。このことが冷戦終結、ついにはソ連崩壊に繋がっていった。東西冷戦崩壊と国際秩序の変化はもたらされたが、その代償は、双子の赤字に代表されるアメリカ経済の疲弊であった。
[編集] イラン・コントラ事件
1986年11月レバノンの新聞アルシラア誌によって、アメリカが密かに武器をイランに売却したと報道された。イラン・コントラ事件(イランゲート事件)である。ワインバーガーは、イランへ対戦戦車ミサイル売却に関与していた。その後、武器の売却に原則として反対したと弁明するが、事件の真相を求める圧力と国防予算の成立を前に、1987年11月23日夫人の健康状態を理由に国防長官を辞任した。しかし、辞任後、ワインバーガーは特別検察官に指名されたローレンス・E・ウォルシュによって起訴された。ワインバーガーはイラン・コントラ事件において、いくつかの重罪訴因が存在したとして特別検察官によって形式起訴を受けたが、1992年12月24日ジョージ・w・ブッシュ大統領によって恩赦を受けた。
[編集] 国防長官後、晩年
ワインバーガーは、国防長官在任期間が6年10か月に至り、前任者の誰よりも長期にわたり(ワインバーガー以前で最長は、ロバート・マクナマラ)国防長官の地位を占めた。国防長官辞任後、1989年フォーブズ誌発行人となる。1993年会長に就任。その後、10年以上に渡り、国防、安全保障問題について積極的に発言した。1990年代には国防長官時代を回顧した「平和のための戦い Fighting for Peace」を執筆したほか、1996年冷戦終了後のアメリカ軍について記述した「次の戦争 The Next War」を発表した。ワインバーガーがこれらの著作を発表したことに対しては、レーガン政権時代の同僚達から批判が上がり、出版後、接触を拒否するものも現れた。
2006年メーン州マウント・デザート島に滞在中、病に倒れ、3月28日メーン州バンゴアの病院で肺炎による合併症のため死去した。88歳だった。
同日ブッシュ大統領は、「アメリカ軍を強化し、冷戦を勝ち取るために尽力した」とステートメントを出した。ドナルド・ラムズフェルド国防長官も記者会見で「冷戦に勝利する中心的な役割を果たした」とワインバーガーの死を悼んだ。
[編集] 受章歴
- 大統領自由勲章(Presidential Medal of Freedom) (1987年受章)
- 大英帝国勲章(ブリティッシュ・エンパイア勲章、Knight Grand Cross of the Order of the British Empire)
[編集] 参考
- 経歴(国防総省公式ホームページ内)
- Caspar Weinberger Dies At 88 - フォーブズ誌死亡記事
[編集] 外部リンク
- アメリカ合衆国国防長官
- 第15代: 1981 - 1987
-
- 先代:
- ハロルド・ブラウン
- 次代:
- フランク・カールッチ
- アメリカ合衆国厚生・教育・保健長官
- 1973 - 1975
-
- 先代:
- エリオット・リチャードソン
- 次代:
- デービッド・マシューズ
- アメリカ合衆国行政管理予算長官
- 1972 - 1973
-
- 先代:
- ジョージ・シュルツ
- 次代:
- ロイ・アッシュ
カテゴリ: アメリカ合衆国の国防長官 | 1917年生 | 2006年没