オスカー・ラフォンテーヌ
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オスカー・ラフォンテーヌ(Oskar Lafontaine, 1943年9月16日 - )は、ドイツの政治家。ドイツ社会民主党(SPD)党首、ゲルハルト・シュレーダー政権の蔵相などを歴任した。SPD党内では左派の論客として知られ、シュレーダー政権発足当初は蔵相となったが、シュレーダー首相と対立、党首と蔵相を辞任した。
ザール・ブリュッケン大学で物理学を専攻する。1985年から1998年まで、ザールラント州首相を務める。1990年統一ドイツ初の総選挙では、SPDの首相候補であったが、選挙遊説中に暴漢に襲われ負傷し、コール首相率いるCDU/CSU陣営に大敗を喫した。その後は国政の舞台から退いていたが、1994年にSPDがルドルフ・シャーピング党首=首相候補の元で敗北し、シャーピングの現実路線の元で党のアイデンティティの喪失と支持率の低迷に苦しむと、1995年のマンハイム市における党大会で党首選に対立候補として立候補、シャーピングから党首の座を奪うことに成功する。ちなみに現役の党首が続投を表明している場合に、対立候補として立候補することはドイツでは《謀反》にあたり、例外的である。また《謀反》が成功した例は戦後ドイツ政治史ではこのラフォンテーヌの例のみであり、このマンハイム市でのSPDの党大会は《下克上党大会》として後々まで語りぐさになる。その後、連邦参議院(上院)の与野党逆転状況を利用して、コール政権を封じ込め、巧みな左派的なレトリックで党を生き返らせることに成功。1998年の連邦議会選挙では、マスコミに人気の高いシュレーダー・ニーダーザクセン州首相(当時)を自らを抑えて首相候補に指名し、稀に見る党一丸となった選挙戦を展開、勝利に導いた。1998年にシュレーダー政権が誕生すると、蔵相に就任した。1999年3月11日に、内閣での「協力の不足」を理由に、蔵相と党の役職、連邦議会議員を辞職した。その後は、政界からは身を引き、著作によるシュレーダー政権に対する攻撃を繰り返している。2005年5月24日、ドイツ社会民主党(SPD)をついに離党し、シュレーダー政権のネオリベラル路線とハルツ4に反対したSPDの一般党員・地方党員が結成した労働と社会的公正のための選挙オルタナティブ(WASG)に参加。WASGの筆頭候補として次期総選挙では、民主社会党(PDS)との連携を模索して左派党(左翼党)結成に合意した。
ラフォンテーヌは、三度目の結婚相手であるクリスタ夫人との間に1997年生まれの息子、カール・モーリスを儲けている。(他にも息子一人)
[編集] 著書
- 『社会民主主義の新しい選択』
- 『国境を超える社会民主主義』
- 『心臓は左側で鼓動する』
- ドイツ社会民主党党首
- 1995 - 1999
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- 先代:
- ルドルフ・シャーピング
- 次代:
- ゲアハルト・シュレーダー