エルナン・コルテス
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エルナン・コルテス(Hernán Cortés, 1485年-1547年12月2日)は スペインのコンキスタドール。
はじめ法律家を目指したが叶えられず、1502年、アメリカ大陸に渡ってスペインのキューバ経営に参加した。1519年、コルテスはキューバ総督の命令に違反して500人の兵、馬16頭、帆船11隻を率いてユカタン半島のベルクルスに到達すると、アステカの宿敵であるトラスカラ人と戦い和睦して同盟を結んだ。
インディオたちに白い神ケツァルコアトルの化身と勘違いされたコルテスは、アステカ王モクテスマ2世に「国をお返しします。」と言って丁重に迎えられ、アステカの首都テノチティトランを6日間案内されて見学し、アステカが思いの外強力であることに気づいた。このとき、血塗られた神殿も案内された。まだうごめいている心臓が銀の皿にのせられていたという。
弱腰を貴族達に責められたモクテスマ2世が、前言を翻してスペイン人に立ち去るよう要求したため、コルテスは、わずかな兵をテノチティトランに残し体制を整えるために引き返した。
コルテスはベラクルスでパンフィロ・ナルバエスに率いられたキューバ総督追討軍に夜襲をかけて破ると、ナルバエスの部下を味方に引き入れインディオを引き連れて再びテノチティトランに戻って来た。翌日、スペイン人による人身御供の禁止に怒ったアステカ人が反乱を起こしモクテスマ2世を殺すと、コルテスは命からがらテノチティトランを後にしてトラスカラに引き返した。
アステカ人はモクテスマ2世のあとに新王クイトラワックを選んで団結していたが、スペイン軍が持ち込んだ天然痘が蔓延して、在位わずか80日でクイトラワックは死亡し、25歳の勇敢な戦士クアウテモック を王に推戴した。
1521年の始め、コルテスは5万余のスペイン兵・トラスカラ・テスココの連合軍を率いてアステカに侵入すると、メキシコ中央盆地の都市を攻略して4月28日にテノチティトランを包囲した。3ヶ月以上の攻防の末、8月13日にクアウテモックは捕らえられアステカは滅んだ。
1523年、コルテスはカルロス1世(カール5世)から総督に任命されカリフォルニア南部を探検した。
コルテスはインディオ女性のマリンチェを妾として寵愛し、彼女との間に生まれた子供マルティンを混血の非嫡出子でありながら後継者に指名している。
コルテスをはじめとする彼らコンキスタドーレスは現地の文明を完膚なくまでに粉砕し、その偉大さに全く理解を及ぼさなかった。彼等は皆狂信的なキリスト教徒であり、インディオの社会が持っていた人身供犠などの野蛮な側面のみをあげつらい、自らの傲慢さや残忍さに気付くものは殆どいなかった。また彼等は征服先で黄金を略奪し、インディオの大量虐殺を行った。多くのインディオ女性を強姦し、また征服が一段落したのちは征服者としての政治的経済的な力でこれまた多くのインディオ女性を妾として所有した。皮肉にも彼等の蛮行に依り、インディオの"野蛮"な人身供犠などの習慣は廃止されることになったが、その先にあったのは新たな隷属と搾取に過ぎなかった。