エムデン (軽巡洋艦・初代)
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エムデン(SMS Emden)(初代)は、ドイツ帝国海軍のドレスデン級小型巡洋艦。第一次世界大戦において、主にインド洋方面で通商破壊戦を行い、冒険的な行動を取り、耳目を集める戦果を挙げたことで知られる。オーストラリア海軍の軽巡洋艦シドニーに撃沈されるまで、戦果として、30隻を越える連合国商船・艦船を撃沈または拿捕した。
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[編集] 初期の艦歴
エムデンは1908年5月26日に進水し、1909年7月10日にドイツ帝国海軍に就役した。艦名はエムス川沿いにあるドイツの都市、エムデンに由来する。同海軍にとっては、最後のピストンエンジン艦であり、姉妹艦のドレスデンは蒸気タービンを使用していた。石炭燃焼艦であり、炉には恒常的にシャベルでもって石炭をくべる必要があった。
1910年4月1日にエムデンは東アジア巡洋艦戦隊に加わり、ドイツの植民地があった中国・山東省のチンタオ基地に配備された。以降、エムデンはドイツ本国に帰還していない。そこにおいては、優雅な船体から「東洋の白鳥」との愛称で呼ばれた。
エムデンの初の任務は、カロリン諸島のドイツ植民地・ポナペ島における反乱の鎮圧であった。巡洋艦ニュルンベルグとともに反乱勢力の拠点を口径104mmの艦砲で砲撃した後、陸戦隊を編成・上陸させ、拠点を制圧した。
1913年5月に、カール・フォン・ミューラー中佐(1873年6月16日生)を艦長として迎えた。ミューラー艦長は騎士道精神にあふれた人物であり、それは後の戦闘などにおいて証明された。
ミューラー着任の数ヵ月後、エムデンは揚子江沿いの中国人の暴動を鎮圧するように命じられた。1913年8月にイギリス及び日本の艦艇と合流し、暴動勢力を制圧した。
[編集] 初期の戦闘
ミューラー艦長は、海軍史の熱心な研究家であり、日露戦争において、日本軍がロシアの旅順艦隊を旅順港に封じ込め、最終的に全滅させたことを良く知っていた。そのため、ヨーロッパより戦争の危機とのニュースが届くと、ロシア艦隊の轍を踏まないことに留意した。そのため、1914年7月31日には、チンタオを出港した。8月2日に、洋上において第一次世界大戦勃発・ドイツの対ロシア宣戦布告の報を受けた。8月4日に対馬海峡において、ウラジオストクに向かっていたロシアの貨客汽船リェーサン(3,500t)を拿捕し、ともにチンタオへ回航、8月6日に入港した。その後、リェーサンは砲艦コルモランから8門の4.1インチ砲を移され、補助巡洋艦・新コルモランに改装された。なお、旧コルモランは、同艦に武装を移した後、自沈した。
その頃、チンタオのドイツ植民地は、イギリス・ロシアなどの連合国によって包囲される恐れがあった。チンタオは良港であり、連合国はその港湾機能を欲していた。ミューラー艦長は、連合国の攻勢を予測するとともに、チンタオが長期の攻勢に耐えられないことを認識していたため、8月7日夕刻には僚艦とともに出港、ポナペに在泊中であったシュペー提督率いるドイツ・東アジア巡洋艦戦隊との合流を急いだ。
8月12日に、パガン島にて東アジア巡洋艦戦隊の主力との合流に成功する。シュペー提督はエムデンに戦隊に留まることを求めたが、ミューラー艦長はインド洋方面において、通商破壊戦を行うことを進言し、単独で行うことを条件に、それは認められた。8月14日朝に、補給艦マルコマニアとともにエムデンはパガン島を出港した。
エムデンはオランダ領東インドのロンボク海峡を静かに通り向け、インド洋に入った。途中、中立国オランダの軍艦トロンプに遭遇し、直ちに中立海域から退去するように求められたりはした。1914年頃は、インド洋は英国商船の航行が多く、その様から「英国の湖」と呼ばれるほどであった。エムデンは、1914年9月9日に中立国のギリシャ貨物船ポントポロス(イギリス向けの石炭を輸送中)を拿捕したのを皮切りに積極的な通商破壊戦を行うこととなる。
[編集] 活躍
1914年9月中に、エムデンは、主にベンガル湾で中立国のイタリア、ノルウェー各一隻を含む17隻の船を拿捕した。拿捕したほとんどのイギリス船舶は、艦砲もしくは爆薬の設置により撃沈したが、一部の船舶は拿捕の結果、捕虜となった船舶乗員を乗せ、解放させた。ミューラー艦長の行動は、戦時国際法に則った紳士的な振る舞いであり、船舶乗員は丁重に扱われた。
エムデンによる通商破壊は、インド洋の連合軍通商路に大きなパニックを巻き起こした。商船の戦時保険料が急騰し、多くの船舶が出港を見合わせた。たった一隻の巡洋艦による影響としては、大きなものであった。
多くの連合軍艦船がエムデンの捜索に向けられた。しかし、発見はできなかった。エムデンは3本煙突であるが、偽装により4本煙突としたりしたことも発見を妨げた。この4本煙突の姿はイギリス巡洋艦ヤーマスによく似ていたという。
9月22日夜、エムデンはイギリス領インドのマドラスに接近した。21時45分、エムデンは3,000mの距離からマドラス港を砲撃し、市街地側の重油タンクを破壊した。130発の砲撃と重油タンクの炎上により、市街地はパニックに陥った。イギリス軍の反撃は極僅かであり、エムデンは全く損傷を受けずに離脱した。この攻撃はイギリスの士気に打撃を与え、エムデンの神出鬼没の行動に驚嘆した。
エムデンは、その後も通商破壊活動を一ヶ月間続けた。その間、10月3日から7日にかけてチャゴス諸島・ディエゴガルシアに投錨し、整備を行っている。また、この間の石炭の補給は、随伴した補給艦マルコマニアや拿捕した船舶から受け取っていた。
その後、エムデンはイギリス領マレーのペナンに向かった。10月28日未明に4本煙突でイギリスの巡洋艦に偽装し、港へ接近、港内に侵入後、ドイツ軍旗(戦闘旗)を掲揚し攻撃を開始した。まず、ロシアの小型巡洋艦ゼムチューク(日本海海戦にも参加)に距離300mから魚雷を発射、ゼムチュークは被雷・沈没する。他に港内にいたフランス軍駆逐艦3隻は反撃を試みたものの、エムデンへの命中弾を得ることはできなかった。エムデンはペナン港外に離脱後、イギリス商船グレンターレットに遭遇した。これを拿捕しようとしたとき、ペナンへ向け航行中のフランス駆逐艦ムスケと遭遇、戦闘となった。この戦闘でエムデンは砲撃によりムスケを撃沈した。
[編集] 撃沈
この時点で、累計70隻以上の連合軍の艦船が、インド洋でエムデンの捜索に向けられていた。その頃、イギリスの洋上無線の基地は、ココス諸島のディレクション島に設置されていた。ミューラー艦長は、この基地の破壊を計画し、1914年11月9日朝にディレクション島に到着した。艦の乗員約50名で、陸戦隊を編成し、島に上陸した。同島の住民は抵抗せず、エムデンの陸戦隊もラジオタワーをテニスコート方向に倒さないことに同意さえした。
エムデンにとって不幸なことに、陸戦隊の上陸直前に、ディレクション島の無線基地は、不審な艦影の発見により、緊急電報を発進していた。オーストラリアの軽巡洋艦シドニー(排水量5,400t 15cm砲8門)やメルボルン、日本の巡洋戦艦伊吹などがたまたま船団を護衛し、島から80km、時間にして2時間の地点を航行中であった。6時55分、シドニーがディレクション島へ急行を開始した。
シドニーの接近を見たミューラー艦長は、汽笛により陸戦隊の帰還を呼びかけるも間に合わず、抜錨し、戦闘準備を行う。9時40分にエムデンは砲撃を開始し、シドニーも反撃を行った。シドニーはエムデンより大型・優速であり、また、エムデンは長期の航海により各所に状態の思わしくない箇所を抱えていた。砲撃戦は1時間半ほど続いたが、ミューラー艦長は損傷したエムデンの沈没を避けるために、11時15分、北キーリング島に故意に座礁した。シドニーは付近にいた補給船ブレスクを捕捉するために、一時エムデンから離れた。ブレスクが自沈したために、16時にエムデンの側に戻ってきたシドニーは、エムデンに戦闘旗が掲揚されているのを発見し、砲撃を再開する。エムデンは急いで戦闘旗を降ろし、白旗を掲げた。翌10日に艦長を初めとするエムデンの乗員は収容され捕虜となった。
[編集] その後
ディレクション島の陸戦隊は、砲撃戦の隙を突き、島にあった帆船で脱出、途中でドイツの商船に拾われ、1915年5月に本国に帰還している。
初代のエムデンが1914年に撃沈された後、二代目のエムデンが建造されたが、1919年に他のドイツ帝国海軍艦船とともにスカパ・フローで自沈した。
ミューラー艦長はマラリアの再発により1923年に死亡した。エムデンの残骸は、しばらく放置されていたが1950年に解体された。
[編集] 要目
- 建造:ダンチヒ工廠
- 起工:1906年4月6日
- 進水:1908年5月26日
- 就役:1909年7月10日
- 総工費:680,000 マルク
- 排水量:3,364t
- 全長:118m
- 全幅:13.4m
- 喫水:5.3m
- 武装:104mm砲10門、魚雷発射管2基
- 装甲:甲板13mm、舷側51mm、司令塔102mm
- ボイラー:12基
- 速力:計画最大23ノット、最大24ノットを記録
- 航続距離:6,000km
- 乗員:360名
[編集] 文献
- Fred McClement : 『軍艦エムデン 死闘の記録』、南波 辰夫訳、朝日新聞社、1972年
- R.K.Lochner : 『エムデンの戦い』、難波 清史訳、朝日ソノラマ、1994年、ISBN 4-257-17260-6