ウラジーミル・シチェルビツキー
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ウラジーミル・ワシリエヴィッチ・シチェルビツキー(ヴラヂーミル・ヴァスィーリイェヴィチ・シチェルビーツキイ;ロシア語:Владимир Васильевич Щербицкийヴラヂーミル・ヴァスィーリイェヴィチュ・シルビーツキイ;ウクライナ語では、ヴォロドィームィル・ヴァスィーリョヴィチ・シュチェルブィーツィクィイ、ヴォロディーミル・ヴァシーリョヴィチ・シュチェルビーチキー;Володимир Васильович Щербицькийヴォロドィームィル・ヴァスィーリョヴィチュ・シュチェルブィーツィクィイ;Volodymyr Vasylyovych Shcherbytsky、1918年 - 1990年)は、ソビエト連邦の政治家。ソ連共産党 政治局員(在任期間、1971年から1989年まで)、ウクライナ共産党第一書記(在任期間、1972年(1975年説あり)から1989年まで)としてソビエト連邦ウクライナ・ソビエト社会主義共和国の指導者として君臨した。ウクライナ人。
レオニード・ブレジネフ、アンドレイ・キリレンコに次いでドニエプロペトロフスク州第一書記に就任した。その後ウクライナ共和国共産党書記を経て、1961年ウクライナ共和国閣僚会議議長(首相)となるが、ニキータ・フルシチョフの忌避を受けて1963年に再度ドニエプロペトロフスク州第一書記に降格された。
1964年フルシチョフが失脚し、ブレジネフがソ連共産党第一書記(後、書記長)に就任すると1965年シチェルビツキーはウクライナ首相に復帰し、1971年ソ連共産党政治局員となり、ブレジネフの親しい協力者として台頭した。ウクライナ第一書記としては、前任者のペトロ・シェレストがウクライナ民族主義に対して比較的穏健な立場を取ったのに対して、徹底したロシア化政策を取り、ウクライナ民族主義には否定的な立場を取った。ブレジネフを中心とするドニエプルペトロフスク派(ドニエプル・マフィア)の一員として政治局内に大きな地歩を占め、特に経済面に置いてソ連国内におけるウクライナの位置は重要なものとなったが、一方でソ連国内における垂直的な分業体制の中にウクライナの経済・産業が組み込まれることとなり、現在におけるロシア・ウクライナ間の問題(例えばガス供給)を生み出すことに繋がった。また、実質ウクライナにおける独裁者となったシチェルビツキーによる専横にもつながった。アンドロポフ、チェルネンコ時代を経て、ゴルバチョフ政権においてもウクライナ共産党第一書記の地位を保ったが、1986年チェルノブイリ原発事故において、事故の情報を隠蔽し事故直後にキエフにおけるメーデー行進を行わせるなどしたため、事故犠牲者の拡大につながった。ゴルバチョフはシチェルビツキーを解任するとともに、チェルノブイリの事故を重く見て情報公開(グラスノスチ)を推進することとなる。
- ウクライナ共産党第一書記
- 1972年-1989年
-
- 先代:
- ペトロ・シェレスト
- 次代:
- ウラジーミル・イワシコ
カテゴリ: ソビエト連邦の政治家 | ウクライナの政治家 | 1918年生 | 1990年没