ウェイン・ショーター
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ウェイン・ショーター(Wayne Shorter, 1933年8月25日 - )は、ジャズのテナーサックス奏者。
[編集] 略歴
幼少期は絵を描く事や映画を好み、13歳で油絵を州の美術展に出して入賞、15歳で長編漫画を描きあげ出版する等、音楽に興味を持ち楽器を手に取ったのは16歳の頃という(この幼少期からのSF・オカルト趣味は後の作品に強く表れている)。ハイスクール卒業後はニューヨーク大学への学費を得るためにミシン工場のベルトコンベアで働く。在学中は夜はナイトクラブで演奏しジョン・コルトレーンとも知り合うなど腕を磨いた。大学を出た彼はまもなく軍隊に徴兵される。陸軍に入隊し名狙撃手と呼ばれ、軍に残るよう説得されるも1958年に除隊する。メイナード・ファーガソンのバンドを経た後1959年アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズに入団。同グループの音楽監督の地位に就く。同年初リーダー作「Introducing Wayne Shorter」をヴィージェイ(Vee-Jay)に録音。1961年、ジャズ・メッセンジャーズの一員として初来日を果たし、日本にファンキージャズブームを巻き起こす。1964年、マイルス・デイヴィスのクインテットにジョージ・コールマンの後任として入団。すでに入団していたハービー・ハンコック、ロン・カーター、トニー・ウィリアムスとともにいわゆる「黄金のクインテット」としてアコースティックジャズの頂点を極めた。1960年代には自身もブルーノートレーベルより「Night Dreamer」「Speak No Evil」「Juju」「Adam's Apple」などの傑作を発表した。なおこの時期のショーターの作品の中にはいわゆる「オクラ入り」、録音はされたもののそのまま発表されずに仕舞い込まれてしまう音源が多く存在したが、それらは'70年以降にアルバム/楽曲単位で大量に発表されている。おそらくは後述のウェザー・リポートの人気上昇により、その時期にショーターがより多くのリスナーの認知を獲得した事とも無縁ではなかろう。1969年のマイルスの名盤「In a Silent Way」より、後のメイン・インストルメントとなるソプラノサックスをプレイし始める。 マイルスのバンドを脱退した後の1970年、ジョー・ザヴィヌル、ミロスラフ・ビトウスらとともにウェザー・リポートを結成。意識的に従来のジャズ・グループの方法論・運営方法を断ち切ったこのグループは、のちに人気ベーシストジャコ・パストリアスの参加も得るなど、クロスオーヴァー・ムーブメントの牽引グループとして人気を博した。また、この間ミルトン・ナシメント、ジョニ・ミッチェル、カルロス・サンタナなどとのレコーディング活動も行なった。1976年からはハービー・ハンコックの「V.S.O.P.クインテット」に参加した。 ウェザー・リポート解散直前の1985年には11年ぶりのソロアルバム「Atlantis」を発表し、自身初となるリーダーバンドを伴っての意欲的なツアーを行った。続く「Phantom Navigater」「Joy Ryder」とソロアルバムを発表した後は、再びセッション活動等に重点を置くが、7年後の1995年には傑作「High Life」を発表した。しかし1996年のツアー中にTWA800便の航空機事故により妻を亡くす(夫を驚かせるために、訪ねることを事前に伝えずに搭乗したらしい)という不幸が起こってしまう(85年には重度の脳性小児マヒであった娘を亡くしている)。 2001年にはダニーロ・ペレス、ジョン・パティトゥッチ、ブライアン・ブレイドとともに新生アコースティックカルテットを結成し大きな話題を集める。新たなパートナーと再婚、70歳を超える現在もこのメンバーで意欲的なツアー活動を続けている。
ウェザー・リポート時代を含めグラミー賞を通算9度受賞しており、サックス奏者としてだけでなく作曲家としての実力も高く評価されており、「footprints」「yes or no」などスタンダード曲となっているものも少なくない。 また日本のスイングジャーナル誌の人気投票ソプラノサックス海外部門において1973年から少なくとも2001年まで29年間連続1位に輝いている。
カテゴリ: ジャズ・ミュージシャン | サクソフォーン奏者 | 1933年生