イラン革命
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
イラン革命(イランかくめい) は、イランにおいて1979年に起こったルーホッラー・ホメイニーを指導者とするイスラム教十二イマーム派(シーア派)の法学者を支柱とする反体制勢力が、パフラヴィー朝に代わって政権を奪取した事件を中心とする政治的変動のことである。イラン・イスラム革命とも呼ばれる。
[編集] 事件の経過
パフラヴィー朝下のイランは1953年のモハンマド・モサッデク首相失脚後、西側陣営の国際戦略のもとでアメリカ合衆国の支援を受けるようになり、西欧化による近代化政策を取りつづけてきた。国王モハンマド・レザー・シャーは1963年に農地改革、森林国有化、国営企業の民営化、婦人参政権、識字率の向上などを盛り込んだ「白色革命」を宣言し、上からの近代改革を推し進めた。しかし、こうした政策は、西欧化により地位を脅かされた宗教界や、改革の標的とされた地主など旧世代の富裕層の反感を買った上、政策の実行が強権的だったことから、人権を問題とする知識人や学生の反発もあった。
1978年1月、フランス・パリに亡命していた反体制派の指導者で、十二イマーム派の有力な法学者のひとりであったルーホッラー・ホメイニーを中傷する記事を巡り、イラン国内の十二イマーム派の聖地コムで暴動が発生、宗教学生と警官隊の衝突した。この事件以降、国内各地で反政府デモと暴動が多発する事態となった。
国王側は宗教界と和解を図るなど事態の収拾をはかったが、9月8日に軍がデモ隊に発砲して多数の死者を出した事件をきっかけにデモは激しさを増し、ついに公然と反国王・イスラム国家の樹立が叫ばれるに至った。11月、収拾策に行き詰まった国王は、国軍参謀長のアズハーリーを首相に登用し、軍人内閣を樹立させて事態の沈静化をはかったが、宗教界や反体制勢力の一層の反発を招くなど事態の悪化をとどめることができず、反国王側の政党である国民戦線のバフティヤールを首相に立てて、翌1979年1月16日、国外に退去した。
バフティヤールはホメイニーと接触するなど、各方面の妥協による事態の沈静化をはかったが、ホメイニーはじめ国民戦線内外の反体制側勢力の反発を受けた。2月1日、ホメイニーの帰国により革命熱がさらに高まり、2月11日、バフティヤールは辞任、反体制勢力が政権を掌握した。
4月1日、イランは国民投票に基づいてイスラム共和国の樹立を宣言し、ホメイニーが提唱した「法学者の統治」に基づく国家体制の構築を掲げた。
[編集] 革命の国外に対する影響
イスラム共和国体制は、アメリカの支援を受け近代化を行っていたパフラヴィー朝を倒したことや、西欧的な近代化の価値観を全面的に否定したことから、アメリカをはじめとする西側諸国とイランとの関係が悪化した。特に、11月にはアメリカ大使館占拠事件が起こり、アメリカとの関係は断絶寸前となる。
一方、周辺のアラブ諸国にとっては、十二イマーム派を掲げるイランにおける革命の成功は、十二イマーム派の革命思想が国内の十二イマーム派信徒に影響力を及ぼしたり、反西欧のスローガンに基づくイスラム国家樹立の動きがスンナ派を含めた国内のムスリム(イスラム教徒)全体に波及することに対する怖れを抱かせ、イランは周辺アラブ諸国からも孤立することになった。
1980年、長年国境をめぐってイランと対立関係にあり、かつ国内に多数の十二イマーム派信徒を抱えてイラン革命の影響波及を嫌った隣国イラクがイランに侵攻、イラン・イラク戦争が勃発した。イランの猛烈な反撃によりイラクが崩壊し、産油地域が脅かされたり、十二イマーム派の革命が輸出されたりすることを懸念したアメリカがイラクに対する軍事支援を行った結果、この戦争は8年間の長きにわたり、イランの革命政権に対して国内政治・国内経済に対する重大な影響を及ぼした。
また、イラン革命と同じ1979年に起こったソビエト連邦のアフガニスタン侵攻も、ソ連が、イスラム革命がアフガニスタンへ飛び火することを恐れたために長期化したとも言われる。
[編集] 関連項目
- イスラム復興運動
- ムハンマド・バーッキル・サドル
- アリー・シャリーアティー
- モジャーヘディーネ・ハルク
- フェダーイーネ・ハルク
- モハンマド・モサッデク
カテゴリ: イランの歴史 | 20世紀以降のイスラム世界史 | アメリカ合衆国の歴史 (1945-1989) | 20世紀の世界史 | 革命