アーネスト・ラザフォード
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アーネスト・ラザフォード(Ernest Rutherford, 1st Baron Rutherford of Nelson (初代ネルソンのラザフォード男爵)、1871年8月30日 – 1937年10月19日)はニュージーランド出身のイギリスで活躍した物理学者。マイケル・ファラデーと並び称される実験物理学の大家である。α線とβ線の発見、ラザフォード散乱による原子核の発見、原子核の人工変換などの業績により「原子物理学(核物理学)の父」と呼ばれる。
1908年にノーベル化学賞を受賞した。また、ラザフォードの指導のもとにチャドウィックが中性子の発見で、コッククロフトとウォルトンが加速器を使った元素変換の研究で、アップルトンが電離層の研究で、それぞれノーベル賞を受賞している。
[編集] 生涯
- 1871年 - ニュージーランド、ネルソン近くのブライトウォーターで生まれる。
- 1882年 - ペロラス・サウンドに引越し、中学校に通う。中学校で後に妻となるメアリ・ニュートンと出会う。
- 1889年 - クライストチャーチのカンタベリー・カレッジへ進学。在学中に電波検知器を作る。また、鉄の磁化に関する論文で理学の学士号を取る。
- 1895年 - ニュージーランドの奨学金を得てイギリスのケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の研究員となる。トムソンの指導のもと気体の電気伝導の研究を始める。
- 1898年 - ウランから二種類の放射線(α線とβ線)が出ていることを発見。この年にメアリ・ニュートンと結婚。同年、カナダ・モントリオールにあるマギル大学の教授となる。
- 1899年 - 放射線のアルミ箔の透過を調べ、α線とβ線を分離。
- 1900年 - γ線が電磁波であることを示す。ソディと共同でラジウム、トリウム、アクチニウムの研究を始め、放射性元素が互いに移り変わると考えるようになる。「半減期」の概念を作る。これは後に岩石の年代測定に用いられるようになる。
- 1902年 - 元素が放射線を放出すると別の元素に変わるという放射性元素変換説を提唱。
- 1903年 - ロンドン王立協会会員となる。
- 1907年 - マンチェスター大学教授となる。この年、ガイガーと共同でα粒子の計数に成功。これは後にガイガー・ミュラー計数管として実用化される。
- 1908年 - ボルトウッドと共同で放射性元素の変換系列を調べて変換が鉛で終わることを発見し、またその速度を求めた。この年、α線をガラス管に集め、放電スペクトルを調べることでα線がヘリウム原子核であることを発見。また、「元素の崩壊および放射性物質の性質に関する研究」によりノーベル化学賞を受賞。
- 1911年 - ガイガー、マースデンとともにα線の散乱実験を行い、原子核を発見。この実験結果に基づいてラザフォードの原子模型を発表。
- 1914年 - ナイトに叙せられ、サー・アーネストとなる。
- 1917年 - ケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所の所長となる。
- 1919年 - α線を窒素原子に衝突させ、原子核の人工変換に成功。
- 1920年 - 中性子の存在を予言。中性子は教え子のチャドウィックが1932年に発見し、それによりノーベル物理学賞を受賞している。また重水素の存在も予言し、研究を行なった。
- 1925年 - ロンドン王立協会会長となる。
- 1931年 - 男爵に叙せられ、ネルソン卿となる。
- 1937年 - ロンドンで死去。66歳。
- 1997年 - 原子番号104の元素がラザホージウム (Rutherfordium) と名づけられる。
[編集] 参考文献
- 小山慶太 『ケンブリッジの天才科学者たち』 新潮選書、1995年。ISBN 4106004887
[編集] 関連項目
- ラザフォード(単位)
- 王立協会会長
- 1925-1930
-
- 先代:
- チャールズ・シェリントン
- 次代:
- フレデリック・ホプキンズ
カテゴリ: イギリスの物理学者 | ニュージーランドの物理学者 | ノーベル化学賞受賞者 | 1871年生 | 1937年没