のぞみ (探査機)
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のぞみ(第18号科学衛星PLANET-B)は宇宙科学研究所によって、打ち上げられた日本初の火星探査機。1998年(平成10)7月4日午前3時26分(日本時間)に、M-Vロケットにより打ち上げられた。計画名はPLANET-B。小中学校の教科書に取り上げられるなど広く国民の期待を集め、火星まで約1000 kmまで接近したものの、最終的には火星周回軌道への投入を断念した。
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[編集] 概要
火星の上層大気などを観測することを目的としていた。観測機器としては、カメラのほか、磁場探査機、電子エネルギー分析器など14種類の機器を搭載しているが、小型の探査機においてこの搭載量は他に類を見ない。この機器類で15項目の観測を行うことを目的とした。アメリカなどが推し進めていた火星自体の観測よりも、火星の磁気圏や、上層大気の調査を主要な目的としていることが特徴である。
PLANET-Bの研究は1980年代から始まり、当初は金星を目指す予定だった。しかし、1988年に打ち上げたソ連のフォボス2号が通信途絶の直前に、火星の太陽と反対側に向かって酸素が流れ出していることが分かり、火星の科学調査の気運が高まった。そのため、PLANET-Bの目標も火星へと変更された。
1992年(平成4)から開発がはじまり、1996年(平成8)の打ち上げを予定していたが、M-Vロケットの開発が一年遅れることが分かり、火星と地球が再接近する1998年に打ち上げが延期された。しかし、1996年の接近よりも条件が悪いことから、スイングバイによる加速を得る軌道を設計した。1998年(平成10)7月4日に、鹿児島県鹿児島宇宙空間観測所より打ち上げられ、2度の月スイングバイと地球パワースイングバイにより、火星を目指した。
飛行中、月の裏側の写真を撮影しているが、月の裏側を撮影した国はそれまで旧ソ連と米国しかなく、日本は月の裏側を撮影した3番目の国になったという成果もあった。
ところが、燃料の逆流を防止するバルブの開放不良により、スラスター噴射を行う地球パワースイングバイが予定の速度を得られなかった。これに対応するため軌道の再計算を行い、スイングバイの経路を再設定した。それは地球と火星の間の空間を3周させ、さらに2度の地球スイングバイによって火星に届けると言う、過去に例の無い方法だった。この軌道により、予定より5年遅れで、2004年(平成16)の火星到着を目指すこととなった。
しかし、長期間の宇宙飛行による故障で、通信機能の大部分が使用不可能になり、現在位置を送信するビーコンと受信機能のみが動作する状態にまで陥った。また、2002年(平成14)4月25日から26日の間に、何らかの原因から電源にブレーカーが作動し、ヒーターが作動しなくなったことから推進剤が凍結し、軌道変換の噴射ができなくなった。ISASは十数年に一度に起こる太陽の強力なフレアが直撃したことによって電源系統の一部がショート、保護回路が動作し一部システムに対する電源投入が不可能となったと報じたが、フレアが起こったのは21日、のぞみに届いたのは22日で、この時ノイズが確認されたが、25日には全て正常に作動していた。
のぞみの状態を知るため、地上から状態がイエスかノーかを判定するコマンドだけを送信。ビーコンのオンオフだけで応答を行わせるという、一度の通信に30分を要する気の遠くなる作業であったが、一応は通信が可能であった。また、ヒーターが作動せず、噴射ができない可能性があったが、のぞみが地球に接近し、温度があがったため推進剤が溶けた。そこでスイングバイを行うため、長いやりとりの末、2回の地球スイングバイを成功させた。
だが電源系統は回復しなかった。電源を入れ続けることで保護回路を焼き切ろうとして、1億3千万回を越えるコマンド送信を行ったが成功せず、2003年(平成15)7月9日にのぞみからの電波が途切れ、地球から一方的に電波を送るだけとなってしまった。このまま進むと、12月14日に火星から894 kmの地点を通過することがわかった。しかし一部では、まさしく火星に衝突するかのような報道がなされた。宇宙空間研究連絡会議による世界的な取り決めでは「殺菌消毒を施していない機器は打ち上げ20年以内に火星に衝突する確率を1パーセント以内に抑える」というものがあった。軌道設計チームはさまざまな方法を検討したが、衝突確率が1パーセントをわずかに上回り、周回軌道に投入できないことが判明したため、12月9日に衝突回避のための弱い噴射を行って軌道を変えさせた。
12月14日午前3時42分、のぞみは火星から約1000Km上空を通過したと推測されている。このとき、機器類が正常に作動していれば、火星表面の写真を自動的に撮影したはずである。無論、それはのぞみに記録されるだけで地球には送信できない。12月19日にのぞみは軌道のずれが地球から観測できる領域を超えたため、12月31日にのぞみの方向へ電波発信の停止動作を指示し、のぞみは宇宙空間に放棄された。のぞみは今後、数億年にわたって火星とほぼ同じ軌道をまわり続けると考えられている。
[編集] 失敗原因
火星軌道投入の直接の原因は、十数年に一度といわれる強力な太陽フレアによる電気系統のショートと保護回路の作動とされているが、ISASにも分からないのが実際のようである。もし、最初に燃料逆流防止のバルブが開放されていれば、5年に及ぶ予想外の宇宙飛行を行わずに済み、太陽フレアを浴びることも無かったかもしれない。このバルブは1992年打ち上げの「マーズ・オブザーバー」(米、失敗)が火星へ向かう際、燃料の逆流によって爆発したと考えられたことから、後で追加されたもので、本当に必要だったのか検討されたが、もっとも大きな要因は、世界有数な小型の機体に、世界でも稀な14種類もの観測機器を搭載したことが大きいともいえる。
のぞみの主目的は、火星上層の大気の観測であり、ただ火星表面を観測するだけの探査機とは全く目的が異なる。表面を観測するのならば、カメラを持っていくだけでもある程度の成果が得られる。一方惑星の複雑な大気の構造を解明するためにはどうしても観測機器を増やさなければ国際的な成果を上げることができない。しかしながら、多数の観測機器を積み込んだことにより、燃料系統や制御機器のバックアップが十分であったのかという点に、疑問符が付くことも事実である。日本初の本格的惑星探査であることから見ても、観測機器を減らし、燃料や予備の制御装置を積むことで、信頼性を向上させるべきではなかったのか、あるいはハレー彗星を観測した「さきがけ」「すいせい」のように2機同時に打ち上げて成功確率を上げるべきだったと言う意見もある(実際、アメリカやソ連でも初期の惑星探査で2機同時に打ち上げられることが多かった)。しかしこれらは後から出てきた知恵という面が大きく、予算や経験不足から実現は不可能だったと考えるのが自然のようだ。
しかし、日本初の火星探査機とはいえ、宇宙科学研究所の限られた予算では大型化したロケット打ち上げは1年に1度で限界、しかも様々な科学衛星の打ち上げスケジュールは数年先までいっぱいになっているので、現在のところ唯一の「のぞみ」を逃しては火星探査の機会がいつ訪れるとも知れない。事実、現在のISASには「再び火星探査を」という大きな動きはおこっていないし、仮に今そのような動きが起こったとしても実際の打ち上げまでに最低でも10年以上かかってしまう。のぞみはそのような焦りから、様々な研究団体が次々に観測機器の搭載を要求したため、予算限界の小型探査機に15種類の観測機器を積むことになってしまったともいえる。1998年のスイングバイ失敗の時点で諦めるべきだったと言う意見もあるが、同様に次回がめぐってくるか分からないISASの状況を無視した考えと言える。
大型のH-IIロケットを使用すればよかったと言う人もいる。小さなM-Vを使用したことで、探査機の過剰な小型化、軽量化を招いたのではないか。しかし、それはあまりにも当時の状況に無知であるといわざるを得ない。というのは、計画の始まった1992年の時点では、宇宙開発事業団のロケットを、「科学衛星打ち上げのためだけ」と言う理由で独自路線をとり、宇宙開発事業団とは一線を画していたISASが使えるはずもなかったのだ。仮に使えたとしても、そもそも1機180億~200億円するH-IIを、予算が年200億円程度のISASとしてはとても使えたものではなかった。また、H-IIロケットは能力的には惑星間に大型の探査機を打ち上げられたが、肝心のISASの衛星はといえば、人員、予算不足から、アメリカでいえば小型探査機にあたるのぞみでさえ、計画規模が限界だったというのが実態であった。予算の面では、原子力研究と並んで文部省(現文部科学省)予算の大部分を占めていたので、文部省に割り振られる研究予算の少なさに起因するとも言える。
今振り返ってみれば、「のぞみ」には全てが不足していたといっても過言ではないのかもしれない。初の惑星探査であるという経験不足、予算が少ないという金銭的不足、ロケットの能力の低さとそれによって生じたぎりぎりの軽量化。しかし、のぞみの失敗で得た教訓は無ではなかった。のぞみで得た経験は小惑星探査機はやぶさ、そして将来の惑星探査にいかされていくのである。
[編集] メッセージ
「のぞみ」には、日本全国から寄せられた名前が搭載されていた。これは多額の費用を必要とする火星探査に国民の理解を深めてもらおうと、宇宙科学研究所の広報を担当していた的川泰宣教授が提案したもので、2 cm×6 cmに書き込まれた各人の名前を縮小コピーして金属板に焼き付けたものが搭載されていた。1万人分も集まればよいだろうと見込んでいたが(実際はそれより少ないと予想していた)、応募は実に27万694人分(動物も含む)にも及んでしまったものの、全員の名前を宇宙へ送った。一般の日本人も宇宙へ強い関心を抱いていることが窺い知れる。
火星探査機としての役割を終えたのぞみは、この名前とともに宇宙空間を飛び続けるのである。