黒川晴氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
黒川晴氏(くろかわはるうじ、大永3年(1523年) - 慶長4年(1599年))は大崎氏の家臣。家系は清和源氏。足利氏の有力一門である斯波氏の流れを汲み、奥州の斯波一族である大崎氏の支流 最上氏の分家にあたる。黒川稙国の子。留守政景の岳父であり、大崎義隆の子義康を養子とした。左馬頭。月舟斎と号す。
黒川氏は出羽の最上氏の一門でありながら、最上氏の宗家にあたる大崎氏の領地近くに住し、代々、鶴盾城を拠点とする陸奥国陸中地方に勢力を有していた。国人領主である黒川氏は大崎氏から半独立の地位を有していたが、大崎氏の有力一門として活躍した。後に黒川氏は伊達氏の傘下に入り、戦国時代初頭期の当主である黒川晴氏もはじめは伊達氏の家臣であったが、1588年に伊達政宗が大崎義隆を攻めたとき(大崎合戦)、政宗を裏切って大崎氏に味方した。伊達が大崎攻めを敢行した際、桑折城の戦いで伊達軍を痛撃、さんざんに破る一方で、敗走し窮状に陥った娘婿の政景を見逃すなど人情に厚い人物であった。小田原の役に遅参した罪で大崎氏が所領を没収されると晴氏も領地を失い、のちに大崎氏の旧領を支配することになった政宗に捕らえられ処断されそうになるも、政景の取りなしもあって一命をとりとめた。