阿部正福
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
阿部 正福(あべ まさよし、元禄13年6月6日(1700年7月21日) - 明和6年10月10日(1769年11月7日))は、阿部家備後福山藩二代藩主。父は阿部家福山藩初代藩主阿部正邦。
目次 |
[編集] 経歴
正福は、元禄13年(1700年)、前藩主正邦の第4男として江戸藩邸で生れる。正徳3年(1713年)に嗣子として7代将軍徳川家継に披露される。同5年(1715年)、正邦の死去により16歳で福山藩を相続し、寛延元年(1748年)に隠居するまで34年間藩主を務める。阿部氏としては4代正倫に次ぐ長期の在任となった。父正邦は入封早々から領内の実態を把握し、貢租・職制などの藩制整備に努めたので、正福はその政策を継続してゆけばよいはずであった。ところが、襲封3年目の享保2年(1717年)秋に福山藩領全域にまたがる百姓一揆が勃発し、同4年(1719年)には朝鮮通信使の接待応接、更に同6年(1721年)福山城下西方にある芦田川の氾濫など多難であった。
農政においては、正福は農民層の分化すなわち没落農民の増加による格差の拡大を認識していたが、その原因は元禄検地に基因する事実上の増税ではなく、村役人たちの不正や浪費に主因があるとして、綱紀粛正や賦役の公正化等の政策を実施していった。また、分地や結婚年齢を制限し農民の極度の零細化を防ごうとした。これらの政策はある程度の成果をあげたと考えられるが、享保17年(1732年)の享保の大飢饉によってそうした努力を帳消しにする程の財政的な打撃を受けたようだ。又、寛保2年(1742年)利根川の氾濫による修復への普請手伝いを命じられ、これも大きな財政的負担となった。
延享2年(1745年)11月、正福は47歳で老中新任への登竜門である大坂城代に就任し、その後の阿部氏が譜代の名門として幕閣へ登場する足掛かりをつくった。しかし、同4年(1747年)12月、病気のため2年程で大坂城代を辞任し、翌、寛延元年(1748年)11月19日には家督を嗣子正右に譲って隠居してしまった。ただ、その後は長命で明和6年(1769年)10月10日70歳で没している。
[編集] 官位
- 1714年(正徳4年)伊勢守
- 1715年(正徳5年)3月12日 二代藩主就任
- 1745年(延享2年)従四位下拝命、大坂城代に就任
- 1747年(延享4年)大坂城代退任
- 1748年(寛延元年)11月19日 藩主退任(在任33年8ヶ月)
[編集] 転載元
福山誠之館同窓会 阿部正福(転載許可)
[編集] 関連リンク
- 阿部氏(福山藩2代)藩主
- 1715~1748
-
- 先代:
- 阿部正邦
- 次代:
- 阿部正右