近藤勇五郎
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近藤勇五郎(こんどう ゆうごろう、嘉永4年(1851年) - 昭和8年(1933年)2月23日)は、幕末・明治の剣客。天然理心流剣術5代目宗主。新選組局長近藤勇の婿養子。旧姓は宮川。諱は信休。
武州上石原村に、宮川音五郎の次男として生まれる。天然理心流剣術に入門し、宮川家の道場で稽古した。文久3年(1863年)、近藤勇が浪士組として京都へ出立する際、勇の一人娘・たまの許嫁となる。その後は松井つね・たまと共に生活していた。
戊辰戦争時、勇処刑の知らせを聞いた勇五郎は板橋で処刑を目撃。すぐさま郷里へ立ち帰り、実父・宮川音五郎と共に勇の遺体を引き取りにいったと言う。
明治9年(1876年)、近藤たまと結婚して剣術道場「撥雲館」を新設。明治16年(1883年)、長男久太郎が生まれた。しかしその3年後の明治19年に妻・たまが死去。国分寺のたよと再婚したが、姑・つねと相性が悪く2年半程で離婚。次にかしと結婚した。
昭和初期、子母澤寛の取材を受けて、幕末当時の回顧談を語る。
昭和8年、死去。享年83。