賈充
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賈充(かじゅう、217年 - 282年)は、中国の魏・西晋の政治家。字は公閭(こうりょ)。
賈逵の子。228年に父が病死した後、12歳で陽里亭侯を継ぎ、若くして司馬懿の腹心として活躍した。255年に毌丘倹・文欽が反乱を起こした時には参軍として出征し、主の司馬師が急死した後の軍を監督した。魏の高貴郷公曹髦が司馬氏から実権を奪い返すために兵を挙げた際、この事変に激怒した司馬昭の指示を受けて、部下の成済に命じて殺害させた。晋になってからは要職である司空・尚書令等を歴任し、泰始律令の制定にも当たった。司馬昭の死後、その子の司馬炎に仕えて信頼も篤く、娘の賈南風は賈后として司馬衷(武帝司馬炎の次男)の皇后となった。後に賈南風は晋が滅びる要因となる。
晋朝成立の功臣として、その功績は筆頭に挙げられた。咸寧6年(280年)の呉征服戦では、終始開戦に反対し続け、総指揮官を任されてもそれは変わらなかった。結果的に呉征服は大成功を収め、中国は統一された。開戦に反対し続けていたとはいえ、賈充の地位が揺るぐことはなく、むしろ杜預ら主戦派は中央に賄賂を送るなど、保身に汲々とする有様だったという。魯公に封ぜられ、死後、武公と謚された。