渡辺薫彦
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渡辺薫彦(わたなべ くにひこ、1975年4月5日 - )はJRA(日本中央競馬会)の騎手。滋賀県生まれ。デビュー時から現在まで栗東・沖芳夫厩舎所属。
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[編集] 来歴
1994年3月5日、中京競馬第12競走でヘラケンに騎乗してデビュー(7着)。そして6月26日、中京競馬第8競走でミスターハリケーンで初勝利。その年は9勝を挙げた。 2000年8月20日3回小倉競馬第4競走でスリーグロリアスに騎乗、JRA通算100勝を達成、 2004年11月20日の京都競馬第8競走をマンジュデンツルギで勝ち、通算200勝を達成した。
[編集] ナリタトップロード
渡辺騎手を語る上で最も大きな存在がナリタトップロードである。1999年のきさらぎ賞で2番人気の同馬に騎乗し勝利。これが重賞初制覇となった。この年のクラシックにナリタトップロードと共に参戦するが、皐月賞3着、東京優駿2着と、あと一歩のところで届かなかった。東京優駿のレース後に流した悔し涙は、今もファンの心に強く焼き付いている。そして、秋の菊花賞でGI初制覇を成し遂げた。現在までのところ、これが唯一のGI勝利である。またナリタトップロードの全8勝中7勝は渡辺騎手騎乗によるものである。
渡辺騎手は傑出した成績はこれまでに残せていないが、実績が無いからこそこのコンビが人気になったと思われる。
ナリタトップロードの資質を十分に発揮した騎乗ができていないとの批判もあり、途中的場均・四位洋文と鞍上を交替させられたこともあるが、結局は渡辺の元に戻ってくる。2001年の阪神大賞典で2戦騎乗した的場均から再び騎乗機会が来るが、主戦騎手は俺だと言わんばかりに直線突き放しても追い続け、後続に8馬身差をつけ、さらに芝3000mの日本レコードという大勝利を収めている。
その後、落馬によるケガで2002年シーズンの秋は四位洋文に3戦乗り替わる、そして京都大賞典の完勝と秋の天皇賞2着惜敗という結果を受け、渡辺騎手はもう自分の元には戻ってこないと思ったという。しかしジャパンカップで惨敗し、有馬記念が引退レースとなる。ファンの声もあり渡辺騎手は三たびナリタトップロードの鞍上に帰ってくる。結果は4着だったが当時最強の牝馬との呼び声があったファインモーションには先着。重馬場を見越して先行気味にレースを進めたのが功を奏した形となる。レース終了後は勝利したシンボリクリスエスと同じような歓声が上がった。
翌2003年の年初、京都競馬場において菊花賞優勝時のゼッケン1番をつけて引退式が行われた。関係者インタビューでは渡辺騎手が涙で思わず声を詰まらせる場面があった。
産駒のデビューを待っていた矢先、2005年11月7日にナリタトップロードの訃報があった。その直後に、ベストアルバムに騎乗したエリザベス女王杯での本馬場入場の紹介の際に「ベストアルバム・・・亡き友に健闘を誓う渡辺薫彦です。」という紹介があった。
[編集] 主な騎乗馬
- バンブーピノ - 父はクリスタルグリツターズ、12戦3勝。1993年生まれ、1996年マーガレットS(OP)勝ち。沖厩舎所属馬で、新馬戦からデビュー3年目の渡辺が手綱を取った。1996年NHKマイルカップにおいては最初の1000mを56.7秒のハイペースで暴走してしまい、タイキフォーチュンによる4歳(旧表記)芝1600mレコード樹立に一役買うとともに辛酸を舐めた。
- ナムラサンクス - 父はサクラチトセオー、38戦7勝。1999年生まれ、栗東・松永善晴厩舎所属馬(調教師引退に伴い河内洋厩舎)。渡辺とのコンビでは2004年ダイヤモンドステークス(GIII)ほか4勝を挙げた。
[編集] 成績
- JRA218勝、重賞8勝うちGI1勝(2005年終了時点)