水野忠実
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水野 忠実(みずの ただざね、寛延2年11月23日(1750年1月1日) - 文政5年4月25日(1822年6月14日))は、紀伊新宮藩の第7代当主。父は水野守鑑(忠実は次男)。養父は第6代当主・水野忠興。子に水野範明、村上喜龍、水野忠雅、井戸氏に婿養子に入った息子一人。娘は3人ほど早世し、残りは生駒親章室、諏訪頼存室、木下俊隆室、岩本正修室、永田直住養女となった。官位は飛騨守。名は忠奇(ただより)とも。
寛延2年(1749年)11月23日生まれ。宝暦13年(1763年)6月28日に養父が死去したため、同年8月6日に後を継いだ。文政5年(1822年)4月25日に75歳で死去する。本来なら嫡男の範明が後を継ぐはずであったが、早世していたため、その範明の子にあたる水野忠啓が後を継いだ。法号は法心院殿永持日顕大居士。墓所は東京都新宿区四ツ谷の戒光寺。
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