日岡神社
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日岡神社 | |
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所在地 | 兵庫県加古川市加古川町大野字日岡山1755 |
位置 | -- |
主祭神 | 天伊佐佐比古命 |
社格等 | 式内社(小)・郷社 |
創建 | 天平2年(730年) |
本殿の様式 | -- |
例祭 | 10月第2日曜日 |
主な神事 | -- |
日岡神社(ひおかじんじゃ)は、兵庫県加古川市(播磨国賀古郡)にある神社である。安産祈願で有名である。式内社で、旧社格は郷社。
天伊佐佐比古命を主祭神とし、豊玉比売命、鵜草葺不合命、天照皇大御神、市杵島比売命を配祀する。
目次 |
[編集] 概要
日岡神社は加古川の東岸にある丘陵に位置している。この丘陵は古くから日岡と呼ばれ、付近一帯の地名である加古の語源ともされている。奈良時代の地誌である『播磨国風土記』には、日岡の神のことが記されており、古代より信仰の対象であったことが伺われる。
祭神天伊佐佐比古命が景行天皇皇后の安産祈願をしたことから、安産の神として信仰されるようになり、現在においても、東播磨地域で広く信仰されている。
[編集] 歴史
730年(天平2年)の創建と言われている。景行天皇皇后の播磨稲日大郎姫命の最初の出産が難産だったため、次の出産のときに祭神である天伊佐佐比古命が、祖神に対して七日七夜のあいだ、安産の祈願をした。その結果、無事に皇后は双子の皇子を出産したという。この双子の皇子とは大碓命、小碓命であり、小碓命とはヤマトタケルのことである。安産祈願を成し遂げた天伊佐佐比古命が祀られていることから、安産の神として信仰されるようになったという。
延喜式神名帳には「日岡坐天伊佐佐比古神社」と記載されている。近世には「正一位日向大明神」と称していた。明治7年に郷社に列せられ、「日岡神社」と改称した。
かつては日岡山の当社のほか、居屋河原(寺家町)にも日岡神社があり、兄弟社とされていたが1969年(昭和44年)に火災で全焼した。1971年(昭和46年)、居屋河原の日岡神社を当社と合併し、境内社・大鳥居神社として再興した。
[編集] 祭神
927年(延長5年)に完成した『延喜式』神名帳によると「日岡坐天伊佐佐比古神社」と記されており、祭神が「天伊佐佐比古」という神だということが分かるが、奈良時代の『播磨国風土記』には、日岡には大御津歯命の子の伊波都比古命という神がいるとあり、『延喜式』と相違している。奈良時代から平安時代までの間に祭神が変化したのか、それとも、『延喜式』を編纂した中央政府と地元では、祭神に対する認識が食い違っていたのかは分からない。天伊佐佐比古にしろ、大御津歯命にしろ、伊波都比古命にしろ、記紀やその他の文献にはみえない神で、詳しいことは不詳である。
[編集] 構成神社
- 本社
- 社殿は1971年(昭和46年)7月に再建されたもので、鉄筋コンクリート製の権現造。前の社殿は1969年(昭和44年)6月15日に焼失した。社殿の前には外拝殿がある。
[編集] 境内社
- 居屋河原日岡神社(大鳥居神社)
- 祭神:天伊佐々彦命
- 1971年(昭和46年)7月に加古川市加古川町寺家町居屋河原にあった居屋河原日岡神社を遷座したもの。他の境内社よりも規模が大きい。
- 本社の向かって右後方に位置する。おそらく加古川市と高砂市の境界にある高御位山の高御位神社の分社と思われるが祭神が異なっている。社殿は流造。
- 本社の向かって左横に位置する 。社殿は流造。
- 恵比須神社
- 祭神:蛭子命
- 本社の向かって左横に位置する 。社殿は神明造。
- 稲荷神社
- 祭神:保食神
- 本社の向かって左横に位置する 。社殿は流造。
- 住吉神社
- 境内入口近くに位置する。石の小祠である。
- 境内入口近くに位置する。石の小祠である。
[編集] 行事・祭礼
2月に亥巳籠という特殊神事が行われる。最初の午の日の次の亥の日に始まり、巳の日に終わる。 10月の第2日曜日に例大祭が行われる。かつては10月の午の日に行われた。
[編集] 周辺情報
- 西条廃寺跡(北山公園)
- 西条古墳群(国指定史跡)
- 行者塚古墳(国指定史跡)
- 尼塚古墳(国指定史跡)
- 人塚古墳(国指定史跡)
- 城山
- 西条八幡神社
- 愛宕神社
- 稲根神社(二塚古墳)
- 宮山遺跡
- 日岡山公園(隣接)
- 宗佐厄神八幡神社(宗佐の厄神さん)
[編集] 交通
[編集] 文献・論文
- 兼本雄三 1998『近世村落祭祀の構造と変容』(御影史学研究会民俗学叢書11)(岩田書院)
- 兼本雄三「近世地方社の祭祀構造 播磨国加古郡日向大明神の「亥巳籠」」1994『民俗の歴史的世界』(御影史学研究会民俗学叢書7)