方孝孺
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方孝孺(ほうこうじゅ、1357年-1402年)は、明初期の儒学者。字は希直、または希古。別名方正学。
洪武帝の家臣の息子で、1376年に宋濂の師事を受けた。そのときに才能を発揮したことから、明の知識人層から推挙されるが、朱元璋時代はあまり重用されず、閑職のままだったという。1392年、皇太孫(のちの建文帝)の側近となる。建文帝からは重用され、彼が皇帝となると翰林侍講学士に抜擢された。そして建文帝の信任のもとで国政改革に従事し、徳治主義による政治体制を目指したが、燕王・朱棣(のちの永楽帝)による靖難の変が起こる。方孝孺は建文帝から軍の総司令官に任命されたが、儒学者である方孝孺に軍の指揮が執れるはずもなく、軍は大敗して方孝孺は捕らえられた。
即位して永楽帝となった朱棣は、軍師である姚広孝の進言もあって方孝孺を助命する代わりに、彼に即位の詔を書くように命じた。これは、方孝孺が儒学の大成家であるため、即位に関して簒奪として見ている儒学者の支持を得るために永楽帝が考えたことである。しかし、方孝孺は建文帝から重用された恩を忘れていなかったため、永楽帝の即位を「燕賊簒位」と大書した。これが永楽帝の怒りに触れて、一族800余名全てを目の前で処刑された後、同じく建文帝派であった斉泰・黄子澄と共に処刑された。さらに永楽帝は、方孝孺の著作を抹消すべく、それらを全て焼き捨てたうえ、方孝孺の門下生の多くを処刑、もしくは流罪に処したのである。この虐殺は「滅十族」と称された。